なぜわが国は安重根を犯人とすることで幕引きをはかったのか~~伊藤博文暗殺3
前回まで2回に分けて伊藤博文暗殺事件について書いてきた。 通説では犯人は安重根という事になっているが、安重根が拳銃を撃ったことは間違いないものの、伊藤の最も近い位置にいた室田義文の証言によれば、安重根の用いた銃の弾丸と、伊藤の体に残された銃の弾丸とは異なり、また伊藤の体に残された弾丸は、右肩を砕き右乳下に止まった一弾と、右肩関節を貫通して臍下に止まった一弾であったという。室田の証言が正しければ、安重...
正式な手続きなしで「東京遷都」が強行された背景を考える
京都に生まれ育ったこともあって、京都御所の一般公開には何度か行った。 京都御所は毎年春と秋の2回一般公開が行われ、紫宸殿や清涼殿などが公開されるのだが、公開日数がそれぞれ5日程度と短く、期間中は大勢の観光客が訪れる。上の画像は3年前の春に公開の時に撮った紫宸殿だが、この建物の中央の奥に天皇が即位される儀式で天皇の御座(ぎょざ)として用いられる「高御座(たかみくら)」の一部が見える。この時は「現在の高御座...
東京遷都のあとの京都の衰退にどうやって歯止めをかけたか
前回の記事で、明治2年(1869)の「東京遷都」の際に「遷都の詔勅」が出ておらず、東京を首都とする法令も政令も出ていないことを書いた。 明治政府は京都市民らを騙して東京移転することを強行したのだが、「遷都の詔勅」が出せなかったほど京都市民らによる反対が大きかったということだろう。明治政府がそこまでして「遷都」を強行したことを、どう評価すればよいのだろうか。 前回の記事で紹介した故大石慎三郎氏の『日本の遷都...
五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
奈良県の五條市に天平時代の建築物である栄山寺(えいさんじ)八角堂という建物が残されていることを知った。何度か戦火に遭い、八角堂だけは焼けなかったそうだが、法隆寺の夢殿のようなこの国宝の建物をこの目で見たいと思って、五條市や吉野郡の天誅組や南朝の史跡を中心に巡る旅行を計画して、先日行ってきた。 栄山寺は、藤原不比等(ふひと)の長子である武智麻呂(むちまろ)が養老3年(719)に創建したと伝わり、その後、武智麻呂...
天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2
孝明天皇の大和行幸に先行して天皇の鳳輦を迎えようと、文久3年(1863)8月17日に五條代官所を襲って「五條新政府」を置いた天誅組であったが、翌8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も中止となって天誅組は1日で皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたことを前回の記事で書いた。総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿...
吉野の森林王と、闇の歴史である後南朝の史跡を訪ねて~~五條・吉野の旅その3
竹林院群芳園で朝食を済ませて、吉野郡川上村にある蜻蛉(せいれい)の滝に向かう。あきつ小野スポーツ公園があり、その園内を川沿いに進むとこの滝が見えてくる。 蜻蛉というはトンボのことだが、『日本書紀巻第十四』雄略天皇の4年の記録にこの地名の謂れが出てくる。 「秋八月十八日、(雄略天皇は)吉野宮においでになった。二十日に川上の小野にお越しになった。山の役人に命じて獣を狩り出させられた。自分で射ようとして構えて...