シーボルトが、なぜわが国が西洋列強に呑まれないように奔走したのか
前回の記事で、開国に際してわが国と欧米諸国との間に武力衝突が起きなかったのは、シーボルトの貢献が大きかったのではないかという事を書いた。シーボルトの第1回目の来日は文政6年(1823)の6月で27歳の時であった。そして文政11年(1828)の9月に有名な「シーボルト事件」が起こり、その翌年に国外追放となっている。その短い滞在期間の間に、若きシーボルトのことを記した古文書が長崎にあるという。『寄合町諸事書上控』という古...
シーボルトはスパイであったのか
シーボルトがスパイであったというのが多数説になっているのだが、いろいろ調べていくとシーボルトは日本の開国を促すために、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草し、1853年にはアメリカのペリーに日本資料を提供して日本に軍事行動を起こさないことを要請し、1857年にはロシア皇帝ニコライ1世に招かれ、日露交渉のための書簡を起草しているという。わが国が平和裏に開国できるために尽力するような人物がスパイだとし...
押収されたシーボルトの膨大なコレクションの大部分が返却されたのはなぜか
シーボルトと同様にオランダ商館付の医師として出島に滞在し、離日後わが国のことを書物に著した人物は何人かいる。エンゲンベルト・ケンペル(1651~1716)は、1690年(元禄3)に来日し出島に約2年間滞在の後、1691年と1692年と連続して江戸参府を経験し、将軍徳川綱吉にも謁見している。 日本に滞在中に多くの資料を収集し、1692年に離日して1695年にヨーロッパに戻り、彼の遺稿となった『日本誌』が1727年にロンドンで出版されてい...
飛騨地方を舞台にした悪代官と義民の物語
江戸時代に飛騨地方で、「大原騒動」という大きな百姓一揆があったということを知った。Wikipediaによると「大原騒動」とは、江戸時代に飛騨国の代官(のちに郡代に昇進)であった大原紹正(つぎまさ)・正純父子のもとで、明和8年(1771)から天明8年(1788)までの18年間、断続的に続いた百姓一揆とある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8E%9F%E9%A8%92%E5%8B%95 普通に考えれば、たとえ貧しい生活であったとしてもなんとか...
「大原騒動」の史跡や飛騨の国宝や渓谷などを訪ねて白骨温泉へ
前回「大原騒動」のことを書いたが、記事の中で紹介した映画『莟し花』をYoutubeで見て感動し、岐阜方面の旅行の最初に飛騨一宮水無神社(ひだいちのみやみなしじんじゃ)を訪れる旅程を組んだ。 安永2年(1773)に、大原代官の強引な検地に反対する数千人とも1万人とも言われる飛騨の百姓たちがこの神社に集まったのだが、大原代官は郡上藩などの鉄砲隊の力を借りて、武器を所持していなかった集会参加者に銃火を浴びせて多くの犠牲者...