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しばやんの日々

紅葉の名所・養父神社と香住の帝釈寺を訪ねて

聖徳太子や恵便にゆかりのある寺を訪れたのち、兵庫県養父市にある養父(やぶ)神社に向かう。 養父神社は但馬では粟鹿(あわが)神社、出石(いずし)神社と並ぶ古社で、平安時代の延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳には名神(みょうじん)大社「夜夫坐(やぶにいます)神社」と書かれているそうだ。 名神というのは、神々の中で特に古来より霊験が著しいとされる神に対する称号で、『延喜式』「神名帳」には日本全国で226社313...

但馬安国寺の紅葉と柏原八幡神社の神仏習合の風景などを訪ねて

さて、旅行の2日目に入るが、朝一番に向かったのは兵庫県豊岡市但東町にある但馬安国寺。紅葉の名所なので朝一番に向かったのだが、すでに大勢の観光客が来ていた。「安国寺」というと、南北朝時代に足利尊氏・直義兄弟が京都天龍寺の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇をはじめとする南朝の戦没者の菩提を弔うために各地に建てたと伝えられ、この但馬安国寺も全国に68ある安国寺のうちのひとつなのだが、いろいろ調べるとそれらの...

『ポツダム宣言』を受諾したわが国は、連合国に「無条件降伏」したのか

1945年8月14日、日本国は『ポツダム宣言』の受諾を決定し、9月2日に降伏文書に調印した。 学生時代には「太平洋戦争はわが国が連合国に無条件で降伏した」と学んだ記憶があるし、テレビの解説などで「無条件降伏」という言葉を何度も聞いたと思うのだが、最近のわが国の高校教科書ではそう書かれていないことに気がついた。例えば『もういちど読む山川日本史』では、 「8月14日、ポツダム宣言受諾を連合国に通告し、翌8月15日、天...

『ポツダム宣言』の各条項が決まるまでの経緯と公表後の日本の反応~~ポツダム宣言2

前回の記事で、『ポツダム宣言』がわが国に対し戦争を終結させるための条件を提示した文書である事を書いた。 実はこの『ポツダム宣言』が公表される前に、連合国側がわが国に提示しようとしていた天皇制維持に関する重要な部分が削除されたことを最近知った。しばらく鳥居民氏の解説を引用する。「ポツダム宣言は公表に先立ち、削除した箇所があることはだれもが承知している。全13節あるうちの第12節の後半の部分が取り除かれた...

原爆・ソ連参戦の後も『ポツダム宣言』受諾に抵抗したのは誰か~~ポツダム宣言3

前回の記事で、『ポツダム宣言』が出た直後のわが国の反応について書いた。この宣言が公表されてから2発の原爆が落とされてソ連が対日参戦した。これではわが国には、どう考えても勝ち目はないだろう。ドイツのように完全に敗北すれば、わが国は主権を奪われ、国土は戦勝国に分割されてしまう。もし『ポツダム宣言』がわが国に対して「無条件降伏」を要求する文書であるならば、国を失うくらいならば破れかぶれで突き進むしかない...

学生や軍部に共産思想が蔓延していることが危惧されていた時代~~ポツダム宣言4

以前このブログで、1928年のコミンテルン第6回大会で採択された決議内容を紹介した。 「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、(1) 自国政府の敗北を助成すること(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること(3) 民主的な方法による...