条約改正が成功する寸前で大隈重信の脚を引っ張ったのは誰か
前回および前々回の記事で、わが国に英商人が阿片を持ち込んだ事件や、コレラが流行国からわが国へ直航してきた独船がわが国の検疫要請を無視し横浜入港を強行した事件や、英貨物船が座礁し船長ら白人たちは現場を離れ、日本人乗客が全員溺死した事件を紹介した。最近の教科書にはこのような事件についてはほとんど書かれていないのだが、もしこのような事件が起こらなかったら、わが国で「条約改正」を要望する世論の沸騰はなかっ...
陸奥宗光が条約改正を一部実現させた経緯について
引き続き条約改正に関する記事を続ける。前回の記事に関する補足だが、わが国の悲願であった条約改正を成功させる寸前まで来た大隈重信の交渉を、振出しに戻した背景には何があったのだろうか。早稲田大学名誉教授の木村時夫氏は『日本における条約改正の経緯』のなかで、この背景についてこう解説しておられる。「…当時の日本国民は井上案と大隈案とを仔細に比較検討することをせず、外国人判事任用の一点だけを取上げ、それを国...
明治期の日本にとって朝鮮半島はいかなる存在であったか
前回の記事で、陸奥宗光外相らの努力により日清戦争の始まる直前に、英国との間に治外法権を撤廃する条約改正が成就したことを書いた。キンバレー英外相は「この条約は、日本にとっては、清国の大兵を敗走させたよりも、はるかに大きい意義がある」と述べたのだそうだが、この言葉の意味を理解するためには当時の朝鮮半島のことを知る必要がある。以前このブログで「征韓論争」のことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.co...
福沢諭吉は、どういう経緯で『脱亜論』を書いたのか
甲申事変の後、日清間で締結された天津条約(1885年)によって日清両国は朝鮮より撤兵したが、清の袁世凱(えんせいがい)は通商事務全権委員という名目で依然ソウルに留まり、朝鮮への圧力と干渉を強めていった。ところが、天津条約で日清両軍が撤兵したことは千載一遇のチャンスであるとみて、ロシアという新たな脅威が朝鮮半島に進出してきたのである。1884年、ロシアが朝鮮と通商条約を結んだ後に駐韓公使となったウェーバーが、清...
日清戦争開戦前の5ヶ月間の動きを追う
前回の記事で、明治27年(1894)3月28日に金玉均が暗殺されたことを書いたが、4月2日にはロンドンで英国との条約改正の交渉が始まり、7月16日には英国外務省において日英通商航海条約が調印され領事裁判権が撤廃された。また8月1日には日清両国が相互に宣戦布告し日清戦争が開戦している。このように明治27年という年は、わずか5ヶ月の間に随分大きな事件が相次いでいることに驚いてしまう。今回はその5ヶ月間について、日清戦争が始...