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しばやんの日々

生麦事件は、単純な攘夷殺人事件と分類されるべきなのか

文久2年(1862)8月21日、4人の英国人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列と遭遇した。その時英国人は騎乗のまま行列を横切ろうとし、薩摩藩士はこれを止めようとしたにもかかわらず、それを無視してそのまま進んだので、激昂した藩士が英国人に斬りかかり、1人が死亡し2人が負傷したという事件があった。世に言う「生麦事件」である。学生時代にこの事件のことを学んだ時は、当時は攘夷の気運が高まり外人殺傷事件がしばしばおこり、...

薩英戦争で英国の砲艦外交は薩摩藩には通用しなかった

前回は生麦事件における江戸幕府の対応を書いたが、今回は薩摩藩の対応を書くことにする。イギリスは江戸幕府から、得意の砲艦外交により10万ポンドの賠償金の獲得に成功し、次いで鹿児島の錦江湾に7艘の大艦隊を回航せしめ、薩摩藩からも2万5千ポンドの賠償金を獲ろうと企てたのだが、薩摩藩は一歩も引かなかったのである。国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で、薩英戦争に関する記述がありそうな本を探す。「薩英戦争」...

薩英戦争の人的被害は、英国軍の方が大きかった

前回は、文久3年(1863)の薩英戦争は、英国艦隊が錦江湾に停泊していた数隻の汽船を拿捕したことから、薩摩軍が砲撃を開始したことを書いた。薩摩軍が砲撃を開始したなら、英国軍も直ちに砲撃を開始すると誰でも思うところだが、英国軍がすぐに始めたのは、拿捕した汽船内に入って金目のものを掠奪することだった。その汽船は、英国が薩摩に要求していた賠償金よりもはるかに高価な汽船であったようだが、交戦命令が出ているのにも...

「櫻井の別れ」は、どこまでが真実か~~水無瀬から大山崎歴史散歩1

ゴールデンウィークに、阪急沿線の水無瀬駅から大山崎駅近辺の名所を中心に歩いてきた。わずか一駅を歩くだけなのだが、水無瀬駅は大阪府で大山崎は京都府になる。この2つの駅の間に京都府と大阪府の境界線があり、古くは摂津国と山城国の国境があった。この摂津国と山城国の2つの国を結ぶ道はいくつかあったが、唯一山越えをしない「西国街道」が通っているこの地域は、古くから交通の要衝として栄えた地域である。観光地としては...

後鳥羽上皇が愛した水無瀬の地を歩く~~水無瀬から大山崎歴史散歩2

櫻井の駅跡から西国街道を東に進み、途中で右折して水無瀬(みなせ)神宮に立ち寄る。水無瀬川と桂川が合流するあたりを「水無瀬」と呼ぶが、この地域は古くから山水の景勝に富む狩猟地として、多くの都人が来遊し、別荘を構えた場所である。そして水無瀬神宮の境内にはかつて後鳥羽上皇が造営した「水無瀬離宮」があったと伝えられている。『増鏡』は後鳥羽天皇の即位以降15代の150年の事績が記述されている歴史物語だが、その第1巻...

大迫力の閻魔大王像に魅せられて~~水無瀬から大山崎歴史散歩3

水無瀬の滝と東大寺春日神社の後はサントリー山崎蒸留所に向かう。本当は予約が必要なのだろうが、当日でも時間待ちをすれば、サントリーウィスキー「山崎」の仕込から発酵、蒸留、熟成までの製造工程の見学ができ、さらにおつまみ付きで「山崎」や「白州」の試飲もできるし、時間の制約があるものの、おかわりも自由だ。結構歩いて汗をかいたあとにウィスキーを飲んで疲れをいやすという目的があったことは言うまでもないが、ここ...

義和団の暴徒に囲まれ孤立した公使館区域の人々が如何にして生き延びたのか

「眠れる獅子」と形容され、世界から一目置かれていた清国であったが、日清戦争で予想に反してわが国に完敗したあとは、弱肉強食の列強諸国が清国に猛然と牙をむき出して利権獲得に動き出している。清国は三国干渉によって、日本から遼東半島を奪還したのだが、その代償は随分高くついたようだ。まずロシアは、1896年に露清密約を結んで満州を結びウラジオストックに至る鉄道敷設権を獲得し1903年より営業を開始したが、この東支鉄...