世界は乃木率いる第三軍が旅順要塞を短期間で落城させたことを賞賛した
前回は明治37年(1904)11月26日の白襷隊の攻防戦のことまでを書いた。その翌日の午前10時に乃木の率いる第三軍は東北正面の総攻撃を中止し、戦線は西に移動したという。乃木の27日の日記には「日夕、二〇三攻撃を第一師団に命ず」と書かれている。「二〇三攻撃」とは旅順の旧市街地から北西2kmほどのところにある丘陵である「二〇三高地」を攻撃せよとの意で、「二〇三高地」と呼ぶのは山頂が海抜203mであることによる。国立公文書...
圧倒的に劣勢であった奉天会戦に日本軍が勝利できたのは何故か
旅順の攻略を終えた乃木率いる第三軍は、総司令部の命を受け、来たるべき奉天会戦のために1月中旬より北上を開始し、わずか10日で遼陽付近に集結を完了している。この奉天会戦は日露陸戦最後の大会戦となったのだが、戦力を比較すれば兵力・火力ともに圧倒的にロシア軍が優勢であった。日本軍の兵力は約二十五万、火砲約千門に対し、ロシア軍は兵力約三十七万、火砲千二百門。またロシア軍は砲弾量も圧倒的に日本軍よりも多く、奉...
日本海海戦で日本軍が圧勝した背景と東郷平八郎の決断
乃木希助率いる第三軍が旅順要塞に対する第2回総攻撃を開始する11日前の、明治37年(1904)10月15日にバルチック艦隊はリバウ軍港から出航している。ロシア海軍は、バルチック海にある精鋭の艦隊を極東に派遣して、旅順港にある太平洋艦隊とともに日本海軍と戦えば、日本艦隊のほぼ2倍の戦力となるので、勝利して制海権を確保できるとの考えであったのだが、バルチック海から極東に向かう航海は地球を半周するほどの距離がある苛酷な...
ポーツマス会議のあと、講和条約反対・戦争継続の世論が盛り上がった事情
明治38年(1905)6月10日にわが国は米国大統領ルーズベルトの講和提議を正式に受諾し、これと前後してロシア政府もこの提案を受諾して、講和談判地は米国ニュー・ハンプシャー州のポーツマス軍港と決まった。そして7月3日に全権委員として外務大臣小村寿太郎と駐米公使高平小五郎が任命されている。下の画像は、日本の講和団で、前列の右側が小村寿太郎で、左が高平小五郎だ。日露戦争でわが国は、日本海海戦をはじめ個別の戦いでは...
郡上八幡の歴史と文化と古い街並みを楽しんで
毎年7月には避暑と歴史散策をかねて車で旅行することにしているのだが、今年は白川郷と長良川温泉に宿をとり、郡上(ぐじょう)八幡から白川郷、岐阜市、関ヶ原古戦場などを周遊してきた。梅雨が明けていなかったので雨が心配だったが、なんとか予定していた場所を観光することが出来た。ある読者から、カーナビで登録できるように電話番号や時間の目安も書いて欲しいとの要望があったので、今回の旅行からなるべくその要望に応える...
郡上一揆と白山信仰のゆかりの地を訪ね、白川郷の合掌造りの民宿で泊まる
前回の記事で郡上八幡城の歴史について、「金森頼錦(よりかね)の藩主の時代に、農民の困窮甚だしく宝暦義民の一揆がおこり、そのために金森家は改易され、代わって丹後国宮津城主の青山幸道が城主となり、その後の藩政は安定した」と書いた。「宝暦義民の一揆」とは「郡上藩宝暦騒動」とも「郡上一揆」とも呼ばれているが、この一揆が原因で、郡上藩主金森家が改易処分となっただけでなく、幕府高官も大量処分されたという大事件で...