湖底に沈んだ「飛騨の白川郷」と呼ばれた合掌造り集落の話
白川郷の民宿「十右エ門」を8時半ごろ出て、御母衣(みぼろ)ダムの近くの「御母衣ダムサイトパーク」(05769-5-2012)に向かう。白川郷からは17kmで27分程度かかる。今は御母衣湖の湖底に沈んでしまったのだが、以前は「飛騨の白川郷」と呼ばれ、合掌造りの家々が数多く建っていた「岐阜県大野郡荘川村」というのどかな集落が、庄川のさらに上流に存在していたという。沈む前の荘川村の写真が次のURLにいくつか紹介されている。http:/...
「さくら道」を走って、織田信長が天下布武を宣言した岐阜に向かう
前回は荘川桜のことを書いたが、この荘川桜の移植に興味を持ち、その一部始終をカメラに収めた佐藤良二という人がいた。佐藤氏は当時国鉄バスの名古屋から金沢を結ぶ「名金線」の運転手だったのだが、移植2年後の春に再び彼が荘川桜を見に来ると、お花見の最中に老婆が立ち上がり、桜の太い枝を抱えて突然声を上げて泣き出したのだそうだ。この出来事は佐藤氏の心に強く焼き付いて、彼は自分の走る沿線266kmを桜並木で結ぶことを決...
日吉神社、大垣城、南宮大社から関ヶ原古戦場に向かう
旅行の3日目は、長良川沿いの「ホテル石金」のチェックアウトを済ませて、最初に岐阜県安八郡神戸(あんぱちぐんごうど)町にある日吉神社(0584-27-3628)に向かった。ホテルからは18kmくらいの距離で40分もかからない。このブログで、今まで何度か明治初期に仏教施設が徹底的に破壊された「廃仏毀釈」のことを書いてきた。明治までは「神仏習合」があたりまえで、多くの有名な神社に仏像・仏具や仏塔が存在していたのだが、明治維新...
江戸時代になぜ排仏思想が拡がり、明治維新後に廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたのか
このブログで何度か明治初期の廃仏毀釈のことを書いてきた。この廃仏毀釈のためにわが国の寺院が半分以下になり、国宝級の建物や仏像の多数が破壊されたり売却されたりしたのだが、このような明治政府にとって都合の悪い史実は教科書や通史などで記載されることがないので、私も長い間ほとんど何も知らなかった。梅原猛氏は「明治の廃仏毀釈が無ければ現在の国宝といわれるものは優に3倍はあっただろう」と述べておられるようだが...
水戸藩が明治維新以前に廃仏毀釈を行なった経緯
前回は、明治維新後に神仏分離令が出されて、各地で廃仏毀釈が起こった事情を書いた。昔は出雲大社のような有名な神社にも三重塔などの仏教施設があったのだが、「神仏分離」とは神仏混淆の習慣を排し、神社と寺院とをはっきり区別させようという考え方だ。上の図は寛永期(1624~1645)の出雲大社の絵図だが、このように出雲大社においてさえ境内の中に三重塔があったことがわかる。この三重塔が、兵庫県八鹿町の但馬妙見山にある日...
寺院の梵鐘を鋳つぶして大砲を作れという太政官符に苦慮した江戸幕府
嘉永6年6月3日(1853年7月)、ペリーが米大統領フィルモアの親書を携え、艦隊を率いて浦賀に姿を現わしてから1年半が経過した安政元年12月23日(西暦1854年1月)に、こんな太政官符が出ている事が、羽根田文明氏の『仏教遭難史論』に紹介されている。「それ外寇事情は、固より深く、宸襟を悩ませらるる*ところなり。…国家の急務、ただ海防にあり。よって諸国寺院の梵鐘を以て、大砲、小銃を鋳造し、海内枢要の地に置き、不慮に備えんと...