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しばやんの日々

世界遺産の比叡山延暦寺の諸堂を巡って

滋賀県大津市坂本の観光の途中で明智家の菩提寺である西教寺(さいきょうじ)に立ち寄り、光秀の墓の案内文に違和感を覚えたので、しばらく脱線して「明智光秀=天海説」について思うところを書いてきたが、再び滋賀の旅のレポートを続けることにしよう。西教寺をあとにして、湖西道路を北に進み、雄琴IC口を左折し、仰木郵便局前から奥比叡ドライブウェイに入る。ちょっと割高な有料道路だが、よく整備されていて走りやすく、秋の紅...

家康の死後の主導権争いと日光東照宮

元和2年(1616)1月21日に鷹狩りに出かけた家康はにわかに発病し、4月に入って病状が悪化して死期の迫ったことを悟った家康は、多くの遺訓を残している。国立国会図書館のデジタルコレクションで、徳富蘇峰の『近世国民史 第13 家康時代概観』を誰でもネットで読むことができるが、そこに家康の遺訓が記されている。(コマ番号304/343)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1223818外様大名に対しては、家康はこう述べたという。「…...

戊辰戦争で焼き討ちされる危機にあった日光東照宮~~日光東照宮の危機1

以前日光東照宮に旅行したときには全く気が付かなかったのだが、日光東照宮の参道に繋がる神橋(しんきょう)の入口に、刀を差して日光山を見つめる板垣退助の銅像があるという。しかし、なぜ徳川家の聖地である日光に、徳川幕府を倒した側の板垣の像があるのかと気になった。慶応3年(1867)10月14日の大政奉還ののち、12月9日に王政復古の大号令が発せられ、若い明治天皇のもとに公家・雄藩大名・藩士からなる新政府が発足した。新政...

日光の社寺が廃仏毀釈の破壊を免れた背景を考える~~日光東照宮の危機2

以前このブログで、滋賀県大津市坂本の日吉大社の廃仏毀釈が、慶応4年(1868)3月に神仏分離令が出て最初に行なわれたものであり、この時に仏像や仏画や経巻・法器などを徹底的に破壊したリーダーは神祇官権判事の樹下茂国であったことを書いた。それまでの日吉大社は「日吉山王権現」と呼ばれ、いずれの社殿も南光坊天海が開いた「山王一実神道」で祀られていた。社殿には仏像や僧形の木像を神体にし、多くの経巻などが備えられてい...

古き日光の祈りの風景を求めて~~日光観光その1

栃木県の宇都宮に行く用事があったので、ついでに一泊して日光に行ってきた。中禅寺湖方面は紅葉が見ごろを迎えていたため渋滞が避けられないので諦めて、東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺のほか、古い日光の姿を残している場所を求めて、観光客のあまり行かない場所をルートに入れてみた。深夜バスで早朝に宇都宮駅に着いてレンタカーを借りて、最初に向かったのは開山堂と瀧尾(たきのお)神社である。いずれも無人なので次の...