柴山漁港の競りを見学のあと出石神社、宗鏡寺の紅葉を楽しむ
柴山で宿泊した民宿から15分ほど歩いたところに柴山漁港がある。7時ごろからカニの競りがあると聞いたので、朝食前に散歩をかねて見に行くことにした。ちょっと早い目に着くと、ちょうどカニをランク順に並べておられる最中だった。柴山漁港で水揚げされるズワイガニの活カニは「柴山がに」と呼ばれて高級ブランドになっているが、「柴山がに」のランクは大きさ、重さ、姿などで50種類近くあるようだ。柴山漁港のカニのランクは次...
出石散策の後、紅葉の美しい国宝・太山寺へ
出石蕎麦の昼食を終えて出石城址に向かう。途中で出石のシンボルである辰鼓楼(しんころう)がある。辰鼓楼は明治4年(1871)に建てられたもので、昔は太鼓をたたいて時刻を報じたのだそうだ。谷山川にかかる橋を渡り城址にのぼる階段のすぐ東隣りに諸杉(もろすぎ)神社がある。この神社の祭神は多遅摩母呂須久(たじまもろすく)で、この人物は、前回の記事で記した出石神社の祭神である新羅の王子・天日槍(あめのひぼこ)の嫡子なのだそ...
明治維新と武士の没落
明治維新で政権が朝廷に奉還され、明治2年(1869)に戊辰戦争が終了して、日本全国が新政府の支配地となったものの、各藩では江戸時代同様の各大名による統治が行なわれていて、明治政府が諸藩へ命令を行なうには、強制力の乏しい太政官達を出すしか方法がなかったという。それでは大改革は不可能だ。そこで明治政府は、まず明治2年(1869)に版籍奉還を行ない、藩主を非世襲の知藩事とし、藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣とし...
明治政府は士族をどう活用しようとしたのか
前回は、明治維新のあとで士族の収入が激減した上に徴兵制が開始され、さらに廃刀令が実施されて、彼等の誇りや特権が剥ぎとられたばかりでなく、生活もままならなくなり、家財道具を売る者や、娘を売る者が出てきたことを書いた。歴史書では「不平士族」という言葉で表現されているが、働く場所が奪われ、収入が9割以上カットされた上に、収入に12%もの新税を課せられては、士族が不平を持たないことのほうが余程不自然である。ま...
江戸開城後に静岡移住を決意した旧幕臣らを奴隷同然に運んだ米国の船
前回まで2回続けて、明治時代の士族の話を書いた。菊池寛の著書『明治文明綺談』に、士族の中でも最も悲惨であったのは徳川の旧幕臣であったと書かれていたので、具体的にその当時のことが書かれている本を国立国会図書館の『近代デジタルライブラリー』で探していると、『歴史の教訓』という本が目にとまった。著者の塚原渋柿園(つかはらじゅうしえん)は旧幕臣の家に生まれ、明治元年に徳川家と共に静岡藩に移住して藩士となりそ...