徳川家光がフィリピンのマニラの征伐を検討した背景を考える
元和9年(1623)7月に家光が20歳で徳川三代将軍となったが、家光の対外政策やキリスト教に対する政策は、第二代将軍の秀忠の時代よりも一段と厳しいものになっている。家光は将軍に着任したその年から、スペインとポルトガルの船の入港時機を制限し、邦人のキリスト教信徒の海外往来を禁じ、翌寛永元年(1624)には在留しているスペイン人を国外に退去させ、あわせてスペイン人およびフィリピンとの通商を禁止している。かくしてわが国...
石山寺の桜と、湖東三山の百済寺、金剛輪寺を訪ねて
毎年桜の咲くころになると、桜の名所やその近辺の社寺を訪ねるブログの記事を書いてきた。今までは旅行記事の直前に連載記事を終えるように調整ができていたのだが、先月来書き始めた鎖国のテーマが意外と長くなりそうなので、しばらくは重たいテーマから離れて、滋賀県の湖東の桜を訪ねる小旅行のレポートをさせていただくことにする。車で行かれる方のために、今回もカーナビで登録できるよう、私が訪れた場所の住所と電話番号を...
湖東三山・西明寺から多賀大社、国友鉄砲の里を訪ね、長浜の茅葺の宿に泊まる
あびこ屋で昼食を終えてから、次の目的地である西明寺(さいみょうじ:滋賀県犬神郡甲良町池寺26:0749-38-4008)に向かう。金剛輪寺からは8分程度で到着する。この寺は平安時代の承和(じょうわ)元年(834)に三修上人が、仁妙天皇の勅願により開創されたと伝えられ、平安時代から室町時代にかけて、修行・祈願の道場として栄え、山内には17の諸堂と300の僧坊があったという。しかしながら、元亀2年(1571)に織田信長はこの寺にも「焼き...
「観音の里」長浜の桜と文化を楽しんだあと、徳源院や龍潭寺、井伊神社を訪ねて
鶯の鳴き声で目が覚めて、清々しい朝を迎えた。昨日の夕刻から降り出した雨も上がり、今日は存分に桜が楽しめそうだ。長治庵の朝食を終えて、最初に向かったのは渡岸寺観音堂(長浜市高月町渡岸寺50:0749-85-2632)だ。「渡岸寺(どうがんじ)」というと誰でも寺の名前だと思ってしまうところだが「渡岸寺」は地名であって、寺の名前は向源寺(こうげんじ)だという。もしかすると、その「渡岸寺」という名の寺が以前は存在したのかもし...
徳川幕府に「鎖国」を決断させた当時の西洋列強の動き
江戸幕府が鎖国政策を強化していった経緯を続けよう。このブログで、わが国がスペインとの国交を断絶した理由は、スペインの領土的野心が誰の目にも明らかであったからだということを書いてきたが、版図を広げ過ぎたスペインが世界各地で戦火を交えて衰退していくと、今度はイギリスやオランダが東アジアに戦艦を投入して、スペインやポルトガルが保持していた覇権を奪取しようとする動きがあり、それにわが国が巻き込まれる事件が...
島原の乱の最初にキリシタンは寺社を放火し僧侶を殺害した
前回まで江戸幕府が鎖国するに至るまでの経緯について書いてきたが、鎖国政策が強化されていった最中に、わが国史上最大規模の一揆である島原の乱がおきている。この乱は島原半島と天草諸島が舞台となったが、島原は戦国時代に有馬晴信、天草諸島は小西行長という熱心なキリシタン大名が統治した地域である。その後、関ヶ原の戦いの後に天草諸島は寺沢広高の領地となり、慶長19年(1614)に島原は松倉重政の領地となり、それぞれがキ...