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しばやんの日々

南京を脱出し多くの中国兵士を見捨てた蒋介石・唐生智は何を狙っていたのか

前回の記事で、昭和12年(1937)の盧溝橋事件から第二次上海事変に至るまでの経緯について書いたが、わが国は何度も犠牲を出しながらも終始受け身であり、日中の戦いに持ち込もうと挑発行動を行なったのは常に中国側で、わが国は戦争を回避しようとし続けたことを書いた。しかしながら、7月29日の通州事件で日本人居留民260名が惨殺され、さらに8月9日に二人の日本兵が銃殺され(大山事件)、さらに8月13日には支那便衣隊にわが国の陸...

日本軍の南京攻略戦が始まる前から、中国兵の大量の死体が存在していたのではないか

前回の記事で、蒋介石は上海戦に続く南京戦に勝算がないことは承知しており、南京陥落の後に日本軍の暴行を世界に宣伝し、武力戦で負けても宣伝戦で勝つという国策に立っていたことを書いた。蒋介石総統および政府・軍部の首脳は12月7日に南京を脱出し、後を任された総司令官の唐生智も12月12日に逃亡したのだが、これも予定の行動であったと思われる。というのは、無責任にも南京から逃亡した唐生智は、その後栄転して中国国民党...

田沼意次を「賄賂政治家」と貶めたのは誰だったのか

学生時代に田沼意次(たぬまおきつぐ)を学んだ時に、「賄賂政治」をしたなどと書かれていてあまり良いイメージを持っていなかったのだが、最近では田沼時代が評価されてきているようだ。たとえば一般的な高校教科書である『もう一度読む 山川の日本史』を読むと、昔の教科書とは異なる書き方になっていることに気付く。「…10代将軍家治は直接には政治を指導せず、この時代に権勢をふるったのは田沼意次であった。意次は600石の小身...

田沼意知の暗殺を仕掛けたのは誰なのか

天明4年(1784)3月24日、田沼意次の長男である田沼意知(おきとも)が江戸城内において、新番組の佐野政言(さのまさこと)に斬りつけられ、その8日後に死亡している。田沼意知は天明3年(1783)に若年寄に抜擢され、異例なスピードで出世して父・意次の政治を支えていたのだが、34歳という若さで命を奪われてしまった。Wikipediaにはこの暗殺事件について、こう記されている。「江戸市民の間では佐野政言を賞賛して田沼政治に対する批判...

国宝・新羅善神堂近辺の散策の後、大津市歴史博物館で比叡山ゆかりの古仏を楽しむ

都道府県格付研究所のホームページで「国宝・重要文化財総数ランキング」が公開されている。第1位が東京都で2729件、第2位が京都府で2144件、第3位が奈良県で1311件までは誰でも納得するところだが、4位が滋賀県で813件もあることを意外に感じるのは私ばかりでないだろう。http://grading.jpn.org/y2308a05.html#map次に「国宝・重文の建造物数ランキング」を見てみると、第1位が京都府で292件、第2位が奈良県で261件、滋賀県は第3...