Welcome to my blog

しばやんの日々

妙満寺、圓光寺、金福寺の秋を楽しんで

圓通寺の借景を楽しんだのち、近くの妙満寺(みょうまんじ:075-791-7171)を訪ねる。この寺を創建した日汁大正師(にちじゅうだいしょうし)は、もとは玄妙(げんみょう)という天台宗の僧であったが、故郷の会津で日蓮上人の教えに触れて、康暦2年(1380) 67歳の時に日蓮宗に改宗し名を改め、都に上って康応元年(1389)に六条坊門室町(現在の烏丸五条あたり)に妙満寺を建立し根本道場としたという。その後何度か寺が焼失し移転を繰り返し...

島左近は関ヶ原の戦いで死んでいないのではないか

「治部少(ちぶしょう:石田三成)に過ぎたるものが2つあり、島の左近と佐和山の城」という落首がある。「佐和山の城」というのは現在の滋賀県彦根市にある佐和山に存在し、近江支配の重要拠点であった山城で、「島の左近」というのは、石田三成の参謀であった島左近(しまさこん)のことである。三成は左近を三顧の礼をもって迎え、家禄の半分を与えてまでも仕官させたと言われているが、調べてみるとかなり謎の多い人物である。通称...

豊臣秀吉が死んだ後の2年間に家康や三成らはどう動いたのか

いつの時代でもどこの国でも、最高権力者が死んだ後は直ちに激しい権力争いとなることが多いのだが、豊臣秀吉が死んでしばらくの間大きな争い事がなかったとはいえ、水面下ではかなりの駆引きがあったはずである。一般的な高校教科書である『もういちど読む 山川日本史』には、「秀吉の死後、その子秀頼は幼少で、家康がしだいに実権を握るようになった。そのため、秀吉の恩をうけた五奉行の一人石田三成は、小西行長らとはかって...

徳川家康が大坂城を乗っ取り権力を掌握したのち石田三成らが挙兵に至る経緯

前回の記事で、豊臣秀吉が亡くなった後、徳川家康がいかにして政敵を排除して権力を掌握していったかについて書いた。徳富蘇峰は『近世日本国民史家康時代. 上巻』で、家康の政治スタンスをこう表現している。【徳川家康】「家康の眼中には、秀吉の遺言は勿論、いわゆる大老奉行等が血をもって誓うたる、秀吉の法度を守るべしとの起請文も廃紙同様であった。彼は随意に他の大名と誓約を取りかわした。彼はその子秀忠の妻を、随意に...