ゴロウニンを解放させた高田屋嘉兵衛の知恵
文化元年(1804)にレザノフが長崎に来航したのだが翌年に追い返されたのち、文化3年(1806)、文化4年(1807)にレザノフの部下であるフヴォストフが武力でわが国を開国させようと乱暴狼藉を働いた事件があり、その翌年の文化5年(1808)に江戸幕府は間宮林蔵に樺太の探検を命じている。林蔵は2度にわたる探検で樺太が島であることや、樺太や大陸の黒龍江周辺地域がロシアの支配下にないことを確認した。一方長崎では、文化5年(1808)8月に...
又兵衛桜を楽しんだのち宇陀松山の街並みを歩く
毎年4月の上旬に桜を楽しみながら歴史を散策する旅行を計画するのだが、今年は奈良の宇陀市から十津川村を巡ることにした。最初に訪れたのは宇陀市榛原区赤埴の仏隆寺(0745-82-2714)だが、この寺は室生寺の南門と言われていて室生寺とは本寺と末寺の関係にある。この寺の歴史は古く、嘉祥3年(850)に空海の高弟・堅恵(けんね)により創建されたと伝えられているが、これより先に興福寺別当の修円僧都がこの地に開いた説もあるという...
天誅組の足跡を追って天辻峠から十津川村へ
宇陀松山を楽しんだのち、十津川村に向かう。十津川村の面積は672.38 km²あって「日本一の面積を持つ村」と言われるのだが、Wikipediaによると「北方領土である留別村・紗那村・留夜別村・蘂取村に次いで日本で5番目に大きな面積を持つ村であり、東京23区全体の面積(621.98km²)よりも大きい」とあり、わが国の施政権が及んでいる地域としては日本一大きな面積を持つというのが正しい表現になるようだ。ちなみに、日本一大きい村...
誇り高き十津川村の歴史を訪ねて
温泉地(とうせんじ)温泉まで来れば熊野本宮大社もすぐ近くなので訪れる観光客が多いと思うのだが、熊野三山めぐりは別の機会にすることとして、今回の旅行の2日目に旅程に入れていたのは、熊野三山の奥の院と位置付けられ世界遺産にも登録されている玉置(たまき)神社である。神社に行く前に、十津川温泉近くにある野猿(やえん)を見に行く旅程を組んでいた。温泉地温泉から国道168号線を新宮方面に進み、十津川温泉に入ると途中で分...
なぜわが国は『シベリア抑留』の実態解明調査を怠ってきたのか
このブログで『シベリア抑留』について何度か書いたことがある。『抑留』という言葉はわが国が旧ソ連に配慮した言葉と言って良く、実態は『捕虜』であり日本人が奴隷の如く酷使されたのであるが、終戦直後にはわが国の公文書や新聞などでも『捕虜』や『俘虜』という言葉がよく用いられていたことが確認できる。しかし、最近の教科書では『抑留』という言葉ですら使っていないことに気が付いた。たとえば、標準的な高校教科書である...