後南朝の皇子にまつわる川上村の悲しい歴史と土倉庄三郎
松尾芭蕉の門弟の支考が吉野を詠んだ句に、「歌書よりも軍書に悲し吉野山」という作品があるのだそうだが、句中の「軍書」は『太平記』のことで、「軍書に悲し」とは、南北朝時代に吉野山で多くの若武者達が戦いに敗れて死去したことを意味しているという。『太平記』が記しているのは2代将軍足利義詮の死去と細川頼之の管領就任した貞治6年(1368)までだそうだが、吉野の悲しい歴史がそれで終わったわけではない。教科書には何も書...
後南朝の歴史は、なぜ闇に葬られたのか
前回は、奈良県吉野郡川上村で匿われていた後南朝の皇子の命が奪われた事件のことを書いた。この事件は「長禄の変」と呼ばれていて、決して川上村だけに残された伝承ではない。今回は、後南朝の歴史をもう少し詳しく記すことにしたい。教科書や通史では、南北朝時代の戦乱が続いたのち、明徳3年(1392) に南朝(大覚寺統)と北朝(持明院統)間で、和議と皇位継承について和約(「明徳の和約」)が成立して、南朝の後亀山天皇が吉野から京...
白山信仰の聖地を訪ねて加賀禅定道を行く
石川県白山市と岐阜県大野郡白川村にまたがる白山は、古くから山そのものを御神体とする山岳信仰の対象であったが、養老元年(717)に修験者の泰澄(たいちょう)が、白山の主峰・御前峰(ごぜんがみね)に登頂し、翌年に社を築いて白山妙利大権現を奉祀したのち、白山は遥拝の対象から修験の聖地へと変わっていく。修行の起点から禅頂(山頂)に登るまでの山道を禅定道(ぜんじょうどう)と言い、修行の起点となる場所を馬場(ばんば)と呼ぶ...
白峰地区の林西寺に残された白山下山仏と、破壊された越前馬場・白山平泉寺
旅行の二日目は思いのほか良い天気だったのでホテル八鵬を早めにチェックアウトし、白峰の重要伝統的建造物保存地区に向かう。白山が見たかったので、JA白山白峰支店(☎076-259-2003)の近くの駐車場に車を停めて、林西寺の裏にある大前山のブナ林散策コースを歩くことにした。案内板では頂上まで2.2kmとあり、軽い気持ちで登り始めたが結構きつかった。20分程度でようやく頂上に辿りつき、周囲の木々の間に少しだけ白山を見ることが...
浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと
前回の記事で、あまりにも強引な明治政府の宗教政策に反対して、浄土真宗の僧侶や門徒たちが一揆を起こしたことに少し触れたが、今回はそのことについてもう少し詳しく記すことにする。浄土真宗は、既成教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶だけでなく門徒も共有していたことが大きいようだ。臼井史朗氏の『神仏分離の動乱』に、東本...