明治6年に越前の真宗の僧侶や門徒はなぜ大決起したのか~~越前護法大一揆のこと
前回は明治政府の強引な宗教政策に反対して、明治4年(1871)の3月に三河国碧海郡・幡豆郡(特に菊間藩飛領地域)の浄土真宗の僧侶や門徒が起こした『大濱騒動』のことを書いたが、今回は、『大濱騒動』よりもはるかに規模の大きかった明治6年(1873)の『越前護法大一揆』のことを記しておくことにしたい。『大濱騒動』では、明治4年(1871)に服部純という役人が領内の寺院住職に対して寺の統廃合の話を持ちかけたことを書いたのだが、同...
キリスト教国を相手に開国したわが国がキリスト教を禁止し続けた矛盾
江戸時代の末期に、わが国は米国からの要求をきっかけに西洋諸国に門戸を開くようになり、通商条約が結ばれたことで各国の外交使節と共に多くの宣教師が来日している。【大浦天主堂】横浜には1862年に聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)が建てられ、1865年には長崎に大浦天主堂が建てられたのだが、二百数十年にわたり『隠れキリシタン』として代々人目を忍んで信仰を守り続けていた浦上村の村民たちが、大浦天主堂を訪ねてキ...
戦国時代に多くの農民が大名の軍隊に加わった理由
学生時代に、応仁の乱ののち下剋上の風潮が生まれて、諸国には実力によって領地を支配する大名が次々と生まれて互いに争う時代になったと学んだのだが、なぜこのような戦争を繰り返す世の中になったのかが良く分からなかった。戦国時代の軍隊の大多数は足軽で、彼らのほとんどは農民で戦争のたびごとに駆りだされていたというのだが、農業という重要な仕事を持ちながら、多くの農民が戦いに参加したのはなぜなのか。小説やドラマで...
応仁の乱の前に何度も土一揆がおきた背景を考える
前回の記事で、1420年頃から太陽活動が極端に低下する『シュペーラー極小期』が始まっていて、それから冷夏・長雨による飢饉の記録が増加していることを書いた。このような異常気象は100年以上続いて、わが国の各地で穀物等の収穫量が減少して餓死者が続出したのだが、この時期に各地で土一揆が起ったことや応仁の乱(1467年)が起こったことは、冷夏が続いて穀物の収穫量が減ったことと無関係ではなかったと思うのだが、そのような...