飢饉がありながら、応仁の乱の10年間に土一揆の記録がないのは何故か
前回の記事で応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群も京を目指したことを書いた。応仁の乱が起こる39年前の正長元年(1428)に有名な『正長の土一揆』が起きている。【馬借 『石山寺縁起絵巻』より】Wikipediaにはこう解説されている。「室町時代中期、凶作(前年からの天候不順)、流行病(三日病)、将軍の代替わり(足利義持から足利義教へ)などの社会不安が...
室町幕府の弱体化を招いた『応仁の乱』はなぜ起こったのか
前回まで2回に分けて応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次ぎ、飢餓難民が京に流入しただけでなく、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返したのだが、室町幕府は有効な対策が打たないまま、『応仁の乱』が起きたことを書いた。『応仁の乱』は、最近の教科書ではどう記されているかが気になって、『もういちど読む山川日本史』で確認すると、こうなっている。「応仁の乱義教死後の幕府は守護大名の勢...
近江八幡の歴史と文化を楽しんで
しばらく重たい話題が続いたので、気分転換がしたくなって滋賀県の湖東地区の文化財を訪ねる旅行をしてきた。最初に訪れたのは西国三十三カ所の第三十一番観音霊場の長命寺(近江八幡市長命寺町157、☎0748-33-0031)である。聖徳太子開基と伝えられている古い寺で、近江守護佐々木氏の崇敬と庇護を受けて栄えたのだが、永正13年(1516)に佐々木氏と伊庭氏の対立による兵火により伽藍が全焼し、現存する堂宇は室町時代から近世初期にか...
誰が安土城を焼失させたのか~~安土城跡と近隣散策記
近江八幡の中心地の観光を終えて安土城跡(近江八幡市安土町下豊浦)に向かう。安土城は、織田信長が天下統一の拠点として、重臣である丹羽長秀を総普請奉行に据えて安土山に築城させた城である。上の画像は大阪城天守所蔵の「安土城図」で、現在は四方とも干拓されて陸地になっているが、当時は琵琶湖の内湖に囲まれていたことがわかる。安土城の天守が完成したのは天正7年(1579)のことだが、その3年後の天正10年(1582)の6月2日に本...
白壁と蔵に囲まれた五箇荘の近江商人屋敷めぐり
今回の旅行の計画を練っている時に、現在のわが国の一流企業で近江商人にルーツがある企業が随分多いのに興味を覚えた。近江商人とは近江に本拠地をおく他国稼ぎ商人のことである。Wikipediaに近江商人の流れを汲んでいる主な企業名が出ている。【流通業】大丸、高島屋、白木屋、藤崎、山形屋、西武グループ、セゾングループ【商社】伊藤忠商事、住友財閥、双日、トーメン、兼松、ヤンマー【繊維関係】日清紡、東洋紡、ワコール、...