大政奉還のあと討幕派はいかにして王政復古に持ち込んだのか
前回の記事で徳川慶喜が1867年(慶応3)年10月14日朝廷に大政奉還を申し出たことを書いたが、その同じ日に正親町三条実愛(おおぎまちさんじようさねなる)邸にて薩摩の大久保利通、長州の広沢真臣(さねおみ:当時は兵助)に討幕の密勅が手渡され、薩摩藩および長州藩はその請書を提出している。この『討幕の密勅』はかなり過激な内容になっていて、次のURLにその読み下し文が出ている。http://www.japanusencounters.net/restoration.ht...
王政復古の大号令の出た直後に京都が戦火に巻き込まれてもおかしくなかった
前回の記事で1867年(慶応3)年12月9日に岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発し、夕刻に開かれた小御所会議で徳川慶喜に対する『辞官納地』を決定し、実質上の武力討幕方針を決めたことを書いた。当時京都には幕府陸軍5千余人、会津藩兵2千余人、桑名藩兵千余人、その他あわせて1万人余の幕府軍がいたのだが、彼らは討幕派による「王政復古の大号令」や慶喜に対する『辞官納地』の決定に、どのような反応を示したのであろ...
武力解決派の挑発に乗ってしまった徳川幕府
前回の記事で、慶応3年(1867)12月9日の『王政復古の大号令』のあと、幕府の家臣や幕府軍の兵士が将軍・徳川慶喜のいる二条城に集まり、「薩摩を討伐せよ」と殺気立ったのだが、慶喜は「ここで戦端を開けば彼らの術中にはまって我らが朝敵とされてしまう」と、血気にはやる家臣達を鎮めることに努め、12日に二条城から大坂城に向かったことを書いた。武力解決派は、強引なやり方で御所を占拠し政権を奪取したとはいえ少数派にすぎず...
洋服に陣羽織入り乱れる鳥羽伏見の戦い
前回の記事で、江戸の幕府軍が何度も繰り返される薩摩の挑発に乗って、薩摩藩邸を攻撃し焼打ちしたとの報告が大坂城に届き、城内の将士たちに薩摩討つべしとの声が高まって抑えることができなくなり、ついに慶喜も薩摩を討伐することを認めたことを書いた。慶喜は必ず勝てるとは考えていなかったようだが、城内の将士たちは、江戸で薩摩藩を懲らしめることに成功したのだから、京都でも戦えば幕府軍が勝てると単純に考えたのだろう...
江戸無血開城の真相を追う
慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れて、徳川慶喜は大坂城を離れて江戸に還るのだが、江戸城の家臣も大坂城と同様に主戦論を主張する者が大半であった。渋沢栄一の『徳川慶喜公伝 巻4』にはこう解説されている。「陸海軍人殊に海軍副総裁榎本和泉守(武揚)、陸軍奉行並小栗上野介(忠順)、歩兵奉行大鳥圭介(純彰)及新選組の人々などは概ね戦を主とし(戊辰日記、彰義隊戦史)、兵を箱根、笛吹に出して、官軍を待たんとい...