大飢饉の西日本で平氏や源氏はどうやって兵粮米を調達したのか
前回の記事で、源頼朝や木曽義仲が平氏打倒のために挙兵した治承4年(1180)は大干ばつのために西日本は大凶作となり、平氏は関東に追討軍を送り込んだものの、10月の富士川の戦いでは平氏軍は兵粮不足で逃亡者が続出し、まともに戦える状況ではなかったことを書いた。【「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)】その翌年の治承5年(1181)は、閏2月に平清盛が没した後、4月には尾張・美濃国境付近の墨俣川(現長良川)に...
源平両軍の兵士による掠奪から民衆は如何にして食糧や家財を守ろうとしたのか
前回の記事で、平氏軍も源氏軍も兵粮が不足していて、進軍する街道筋にある村々に押し入って、寺や神社や家々から手当たり次第に掠奪したり、穀物を刈り取ったりしたことを書いた。しかしながら、西日本では治承四年(1180)から干ばつのために凶作が二年続き、京では餓死者が道にあふれるほど食糧の絶対量が不足していた。街道筋にある村々にとっては彼らの食糧を守ることは家族の生死にかかわる大問題であったのだ。では、彼らはど...
京北の常照皇寺と山国隊の歴史を訪ねて
毎年10月に行われる京都の時代祭を参観された方は御存知だと思うのだが、行列は明治維新から順次時代を遡っていき、その先頭を進むのが「維新勤王隊列」で、京都市観光協会による時代祭のHPには「維新に際して、幕臣が東北地方で反乱したとき、丹波北桑田郡山国村(現在・右京区京北)の有志が山国隊を組織して官軍に加勢しました。」と書かれている。https://www.kyokanko.or.jp/jidai/gyoretsu_1.htmlYoutubeで検索すると、時代...
桜の咲く季節に京北の歴史と春を楽しんで
常照皇寺と黒田百年桜は残念ながら美しい桜を楽しむことが出来なかったのだが、山国護国神社の次に訪れた福徳寺(京北下中町寺ノ下 ☎0771-54-0971)の桜はちょうど見頃を迎えていた。福徳寺は曹洞宗の寺院で、寺伝では和銅四年(711)に行基が創建し、弓削道鏡が七堂伽藍を整え弓削寺と称して、現在地より北へ数百メートル先の大谷口にあったとされるのだが、応永三年(1396)の火災に遭い、再建されたものの周山城築城の用材調達のため...
戦国時代がこんなに長く続いたのはなぜか
以前このブログで、応永27年(1420)以降に凶作や飢饉が相次いで飢餓難民が京に流入し、「徳政」を叫ぶ土一揆の大群が何度か京の街を襲い放火・掠奪を繰り返して、室町幕府は有効な対策を打たないまま応仁元年(1467)に『応仁の乱』が起きて市街戦がはじまると、両軍に雇われた足軽たちが狼藉を繰り返したことを書いた。http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-464.html応仁の乱は10年間続きその間に飢饉も起こっているのだ...