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しばやんの日々

蒲生氏郷が毒殺されたという説を考える

蒲生氏郷を郷土の誇りとして顕彰するために、大正八年(1919)日野町の上野田・ひばり野に 蒲生氏郷公像が建設されたのだが、昭和一九年(1944)に武器生産に必要な金属資源の不足を補うため供出されてしまったため、地元の多くの人々の尽力と協賛のもとに昭和六三年(1988)に再建され た。右手には筆を持ち、左手には紙を持っているようなのだが、日野観光協会のHPによると、「文禄元年(1592)名護屋陣に向かう途中、中山道武佐の宿より...

古代からの景勝の地であり和歌の聖地である和歌の浦近辺の歴史を訪ねて

『続日本紀』によると、神亀元年(724)2月に即位した聖武天皇は、その年の10月に紀州に行幸された際に、次のような詔を出されたという。「山に登り海を眺めるのに、このあたりは最も良い。わざわざ遠出しなくても遊覧に充分である。それ故、弱(わか)の浜という名を改めて、明光浦(あかのうら)とし、守戸(もりべ)を設けて、荒れたり穢れたりすることのないようにせよ。また春と秋の二回、官人を派遣して、玉津島の神と明光浦の霊に供...

日本統治時代に近代国家に生まれ変わった韓国

日露戦争でロシアに勝利した5年後の明治43年(1910)にわが国は韓国を併合したのだが、この経緯について一般的な教科書である『もういちど読む 山川の日本史』にはこのように記されている。「日露戦争のおわりごろ、三民主義をとなえる孫文を指導者として、清朝打倒の革命をめざす中国同盟会が東京で発足したことに象徴されるように、それはアジアの民族運動の高まりに大きな影響をおよぼした。 しかし日本は、列強の植民地政策を...

なぜ韓国はいつまでたっても「反日」をやめられないのか

前回の記事でわが国政府や民間企業が、朝鮮半島の近代化のために莫大な投資を行ってきたことを書いた。そして敗戦後、わが国はこれらの投資に対する一切の請求権を放棄させられた上に巨額の資金支援を要求されることになったのだが、普通に考えれば、戦勝国でもない韓国がわが国に対して賠償請求できるとは思えないし、また、わが国が朝鮮半島に残した資産の対価を一切請求できないということもおかしなことである。わが国では、両...

わが国はどういう経緯で朝鮮半島を統治することになったのか

前回の記事で、第二次大戦後に韓国が、朝鮮半島に残したわが国の資産を没収したうえで巨額の賠償金を得ることを可能にするためには、わが国の統治がよほど酷かったという歴史を描いて交渉するしかなかったということを書いた。韓国は、戦勝国が描いた「日本だけが悪かったとする歴史」に飛び付いたのだが、わが国を貶める目的で描かれた歴史叙述の殆んどは虚偽であり、鵜呑みすべきでないことは言うまでもない。では実際の歴史はど...