嘉永6年に行われたわが国とロシアの領土談判とプチャーチンの残した警告
前回の記事で、アメリカのペリーが来航した翌月の嘉永六年(1853)七月にロシアのプチャーチンが長崎に来たことを書いた。プチャーチンは、ペリーのようにわが国を武力で威圧するようなことはしなかったが、携えてきた国書には両国の親善と交易の開始のほかに両国の境界を定めるという難問が記されていた。しかも、プチャーチンが長崎から上海に向かう直前に老中に宛てて記した十月十八日付けの書簡には、択捉島も千島列島も樺太島も...
ペリーの再来航と日米和親条約
ロシアのプチャーチンが長崎を去った八日後の安政元年一月十六日に、今度はペリーが再び浦賀に現れた。ペリーは昨年六月に一年後の再来航を告げて江戸を去ったのだが、幕府にすれば、ペリーがこんなに早く来航することは想定していなかったはずだ。【鳳凰丸】ところで幕府は、一年後にペリーが再来航することを前提に様々な準備をしていたようだ。以前に記したように、老中阿部正弘は強硬な攘夷論者であった水戸齊昭を海防参与に据...
吉田松陰はペリーを暗殺するためにポーハタン号に乗り込んだのか
嘉永七年(1854)三月二十七日ペリーの二度目の来航の際に、吉田松陰と金子重之輔が海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗り込もうとした事件があった。二人は、渡航を拒否されたために下田奉行所に自首し伝馬町牢屋式に投獄され、死罪は免れたものの松陰は長州へ檻送されたのちに野山獄に幽囚されたのだが、松陰がペリーのいるポーハタン号に向かった目的は何であったのか。アメリカに留学しようと...
鳥取の紅葉名所・智頭町の諏訪神社と鳥取東照宮の神仏分離
毎年紅葉の季節になると、古い寺や神社を巡りたくなる。あまり有名すぎる観光地は人が多すぎて風情を感じることが少ないので避けて、なるべく古いものがそのまま残されていそうな場所を選んで旅程を立てるのだが、今年は鳥取県から日本海に向かうことにした。最初の目的地は、鳥取県南東部にある八頭郡智頭(ちず)町。この辺りは山陰と山陽をつなぐ交通の要衝の地で、律令制下ではこの智頭には道俣駅(みちまたのうまや)が設置され、...
陸軍に破壊された鳥取城の城跡から神話の舞台となった白兎海岸へ
前回記事で、明治時代の初めに因幡東照宮(現鳥取東照宮)の神仏分離が行われ、別当寺の大雲院が移転され、鳥取の最大の祭礼であった権現祭りが行われなくなったことを書いたが、鳥取の人々は、さらに地域の人々の誇りであった鳥取城をもこの時期に失うこととなる。次の目的地は鳥取城跡だ。駐車場はあまり多くないのだが、運よく無料のお堀端路上駐車場が空いていたので利用した。鳥取城は久松山城とも言われ、織田信長の中国攻めで...