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しばやんの日々

激戦となった「二本松の戦い」と、二本松少年隊のこと

前回の記事で慶応四年(1868)の「白河口の戦い」について書いた。兵の数では仙台藩を主力とする列藩同盟軍が圧倒的に新政府軍を上回っていたものの兵器の性能に格段の差があり、五月一日には約五百人の新政府軍に白河城を奪われ、仙台藩を主力とする列藩同盟軍はその後約四千五百名迄の増援を行い、白河城の奪取を試みたのだが犠牲者を増やすばかりであった。新政府軍は増援が来ない中で、少ない兵数で白河城を守り切ったのだが、五...

鳴門市とドイツとの100年を超える友好関係のきっかけを作った会津人

重たいテーマを書き続けているうちに、少し気分転換をしたくなって徳島県を旅行してきた。旅程を決めたときには認識していなかったのだが、最初に訪問した鳴門市が、前回までのテーマである東北の戊辰戦争とつながることを旅行の途中で気が付いた。今回はそのことを書こうと思う。最初の訪問地は四国八十八ヶ所霊場の第一番札所霊山寺(りょうぜんじ:鳴門市大麻町板東塚鼻126 ☏088-689-1111)である。室町時代は三好氏の庇護を受け...

暴れ川として知られる吉野川の流域を豊かにした阿波藍と徳島の伝統文化

ドイツ村公園のすぐ近くに四国霊場第二番札所の極楽寺(鳴門市大麻町桧ダンノ上12 ☏088-689-1112)がある。寺伝では奈良時代に行基が開基したとあり、弘仁6年(815)には空海(弘法大師)がこの地での三七日(21日間)の修法で阿弥陀経を読誦したところ満願日に阿弥陀如来の姿を感得したため、その姿を刻んで本尊としたと伝わっているのだそうだが、境内から平安時代の瓦が出土しているので古い寺であることは間違いがない。本尊の木造阿...

白虎隊悲話と会津藩士家族の相次ぐ殉死~~~会津戊辰戦争

慶応四年(1868)七月に二本松城を落とした新政府軍は、次の攻略を会津にするか仙台にするかで意見が割かれた。大総督府軍防事事務局判事の大村益次郎は、二本松城落城後は戦意の乏しい仙台藩を攻めて、最小の流血で最大の戦果を挙げて東北戊辰戦争を終結させようという考えであったのだが、土佐藩の板垣退助がこれに真っ向から反対し、先に会津藩を殲滅することを強く主張したという。国立国会図書館デジタルコレクションに『板垣退...

会津籠城戦と鶴ヶ城落城後の動き

慶応四年(1868)八月二十三日午前十一時頃に甲賀町口廓門を破って城下へ乱入した土佐藩の先鋒隊は、鶴ヶ城(若松城)北出丸に進出し、城への突入を図った。【新島八重】前回の記事でも書いたが、会津藩は有力部隊を藩境に配置していたために城下には精鋭兵がおらず、鶴ヶ城には少年兵の白虎隊や老人部隊の玄武隊と少数の吏員がいる程度だったのだが、中には男装して奮戦した女性もいたという。Wikipediaによると会津藩の砲術師範であ...