鳳来寺の神仏分離と日本の百名洞・乳岩峡などを訪ねて
旅行の二日目は少し早起きして、食事の時間までのあいだ宇連川沿いから不動の滝を散策することにした。コースははづ別館から浮石橋を渡り、ゆーゆーありーなから渡瀬橋を渡ったのち乙女沢遊歩道を歩いて不動の滝を巡るコースである。宇連川は黄褐色の岩の上を流れていて、川底が板を敷いたように見えるため、板敷川とも呼ばれている。夜間の放射冷却で気温が低くなった空気が、暖かい水面付近の空気に触れて、川霧が発生しているの...
徳川綱吉の『生類憐みの令』を悪法とする通説が見直されているのはなぜか
徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』を調べていると、教科書の記述が学生時代に学んだ内容と随分ニュアンスが違ってきているのに驚いた。たとえば『もういちど読む 山川日本史』では、次のように解説されている。「江戸時代の悪法の代表とされてきた生類憐みの令は、近年見直しがすすんでいる。犬の愛護はそれまで食犬の風習や野犬公害の多かった江戸とその周辺で推進されてきたが、全国的には捨牛馬(すてぎゅうば)の禁止が...
綱吉の治世後半を襲った相次ぐ大災害の復興資金を、幕府はいかに捻出しようとしたか
前回は徳川五大将軍綱吉が出した『生類憐みの令』のことを書いたが、もう少し綱吉の話題を続けよう。徳川綱吉が将軍宣下を受けたのは延宝8年(1680)で、宝永6年(1709)に死去するまで将軍位に就いていたのだが、綱吉の時代を調べていくと後半期に不幸な出来事が相次いで起きていることに気が付く。例えば、元禄8年(1695)以降奥州飢饉がおこり、元禄11年(1698)には江戸で大火(勅額大火)が発生し、元禄16年(1703)には関東を巨大地震(元...
江戸時代に大阪が商業の中心地として栄えた理由と、豪商・淀屋の闕所処分を考える
徳川家康が江戸に幕府を開いた以上は、徳川幕府の歴代将軍は江戸が政治・経済・文化の中心になるよう努力したに違いないのだが、元和元年(1615)の大坂夏の陣で豊臣氏は滅亡したにもかかわらず、大阪がわが国の経済の中心地であり続けたのである。その理由はどこにあったのだろうか。この問題について徳富蘇峰は『近世日本国民史. 第19 元禄時代 下巻 世相篇』でこう解説している。この本は国立国会図書館デジタルコレクションで誰...
紀伊国屋文左衛門がみかん船で大儲けしたという話は真実か
紀伊国屋文左衛門は元禄時代の豪商で、荒天の海にみかん船を乗り出して大儲けをしたという話が有名で、私も子供の頃に何度も聞いた記憶がある。【紀伊国名所図会 後編下巻 蜜柑をとる図】この話の概要をまとめると、このようなものである。文左衛門はみかんの産地として名高い紀州(和歌山県)の出身で、まだ20代であったある年、和歌山ではみかんが豊作でありながら嵐のためにみかんを江戸に送ることが出来なくなっていた。江戸で...