極端な欧化主義でわが国の伝統文化や景観破壊を推進した政治家は誰なのか
文芸評論家の高須梅渓が大正九年に上梓した『明治大正五十三年史論』によると、廃藩置県以降の明治政府は、復古的、保守的ではなく、むしろ革新的、進歩的に動いたと指摘したのち、こう述べている。「当時に於ける革新的、進歩的の仕事をした精神、思想は何であったかと言えば、主として近代欧米の文化的勢力に対抗するために、没反省的に発生した欧化主義的実利思想であった。当時の先覚者もしくは少壮気鋭の進歩主義は、わが国に...
鹿鳴館時代に検討されていた条約改正案は欧米に媚びる内容で世論の大反対を受けた
前回の記事で、明治の初期から極端な欧化政策が採られて、その最もひどかった時代が鹿鳴館時代であることを書いた。鹿鳴館は、国賓や外国の外交官を接待するために、明治政府が薩摩藩邸の跡地に建てることを決定し、明治16年(1883年)11月28日に落成した建物であるのだが、鹿鳴館外交への批判の高まりとともに、このプロジェクトを推進した井上馨は明治20年(1887年)9月に外務大臣を辞すことになる。【尾崎行雄】鹿鳴館外交を批判し...
大日本帝国憲法が発布された日に初代文部大臣・森有禮が暗殺された事情
森有禮(もり ありのり)は弘化四年(1847年)に薩摩国鹿児島城下に生まれ、元治元年(1864年)より藩の洋学校である開成所で英学講義を受講し、翌年には薩摩藩の第一次英国留学生として五代友厚らとともにイギリスに渡っている。その後ロシアやアメリカを訪れて見聞を広め、明治維新後に帰国すると、福沢諭吉、西周、中村正直、加藤弘之らとともに明六社を結成し、『明六雑誌』を創刊して民衆の啓蒙活動に取り組んだ。【森有禮】森有禮...
反対勢力との戦いに孤軍奮闘し、東京横浜間に蒸気機関車を走らせた大隈重信
嘉永七年(1854年)にペリーが二度目の来日をした際に、横浜で汽車の模型を動かしたところ幕府の役人たちが、まるで子供のように喜んだことがペリーの記録に残されている。「小さい機関車と、客車と炭水車とをつけた汽車も、技師のゲイとダンビイとに指揮されて、同様に彼等の興味をそそったのである。その装置は全部完備したものであり、その客車はきわめて巧みに制作された凝ったものではあったが、非常に小さいので、六歳の子ども...