吉野山の世界遺産を訪ねて~~金峯山寺から吉水神社、水分神社、金峯神社
前回は吉野山の金峯山寺のことを書いた。
「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは平成16年(2004)だが、この時に世界遺産に登録されたのは、①吉野・大峯②熊野③高野山のそれぞれの霊場とそれらの参詣道で、吉野山における世界遺産の構成資産は、金峯山寺だけでなく、吉水神社(よしみずじんじゃ)、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)の寺社の他に大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)および吉野山全体もあわせて登録されている。
金峯山寺の蔵王権現を見たあとで、前回の旅行では時間がなくて充分に見ることが出来なかった吉野山の世界遺産を訪ねようと歩き始める。
金峯山寺から500mも歩けば吉水神社(よしみずじんじゃ)がある。

今は神社になっているが、もともとは「吉水院(きっすいいん)」といって、今から1300年ほど前の白鳳年間に役行者(えんのぎょうじゃ)が修験僧の僧坊として創建した寺院であった。鳥居はあるのだが、入口にはいかにもお寺のような門が残っている。

上の図は江戸時代の末期から明治初期の間に描かれたとされる「南朝皇居之地吉野山吉水院境内之図」であるが、これをみれば神社に改める前の「吉水院」の境内がどうだったかを知ることが出来る。
南北朝時代の延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野に潜幸された時に、この吉水院に行宮(あんぐう:一時的な宮殿として利用された施設)を設けて以来、吉野は56年間にわたり南朝の帝都となったのだ。この後醍醐天皇を吉野に迎え入れたのが、この吉水院の住職であった吉水宗信法印である。

吉野の人々は後醍醐天皇に味方すれば足利幕府の怒りを買い、平和な吉野が戦争に巻き込まれることを恐れて反対した人が多かったそうだが、吉水宗信法印は「この吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある。」「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならないが、損得勘定で逃げたら、恥は千載に残す。」「吉野が勤王であるのだから筋を通すべきだ。反対する者があらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火のごとくの形相で叫び、反対する吉野人を説得したのだそうだ。
しかし後醍醐天皇は、延元4年(1339)に夏風邪をこじらせて病床につかれ、肺炎を併発されて、吉水宗信法印らの看病の甲斐なく8月16日についに崩御された。
「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ」という天皇の遺言が残されている。
玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都をさしている。後醍醐天皇の悲願は、この地に留まりながらもいつかは京都に帰るという思いをずっと抱いておられたのだ。
後醍醐天皇の崩御を知った足利尊氏は高師直に吉野を襲わせ、この時に金峯山寺蔵王堂を始め吉野全山が焼失してしまったが、吉水宗信法印らが後村上天皇を支えて吉野は復興したのである。
このように吉水院は吉野の歴史に欠かせない寺院だったのだが、明治元年の神仏分離令に続く修験道廃止令により一時は廃寺となってしまう。ところが明治7年(1874)にこの場所で建武中興の理想が成就されたとして、明治政府より「後醍醐天皇社」という名で創立が許可され、翌年に「吉水神社」に名称を改めて存続し現在にいたっている。
明治になるまではこの吉野山には100以上のお寺があったらしいのだが、今残っているのは8寺のみだそうだ。明治政府により半ば強制的に神社に変えられてしまった吉水神社だが、どんな形であれ文化財が残されたことは良かったと考えるべきなのだろう。

ここが吉水神社の本殿であるが、以前は吉水院の本堂であったようだ。今はもちろん仏像はなく、後醍醐天皇と楠正成、吉水院宗信法印を主祭神としている。
その隣に、今は楠正成を祀る祠があり、その隣に書院がある。

この建物は、初期書院建築の傑作と言われており、国の重要文化財に指定されている。中に入ると「源義経潜居の間」と呼ばれる部屋があり、義経が使った鎧の「色々威腹巻」(国指定重要文化財)がガラスケースに展示され、静御前の衣装などが展示されている。

文治元年(1185)源義経は、兄である源頼朝の追手を逃れてこの吉野に潜入され、この書院にしばらく留まったのだが、ここでも追討を受けたために静御前と別れ、東国へ脱出したと伝えられている。

敵である頼朝を前にして、義経との別離を静御前が歌った和歌が残されている。
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
人の跡というのはもちろん義経のことで、この吉水神社は義経と静御前のロマンスの舞台なのである。
そしてすぐ近くに後醍醐天皇の玉座がある。

書院の中には、ほかにも掛け軸や屏風や能面などさまざまな文化財が展示されている。
また吉水神社は、豊臣秀吉が吉野で花見をした時にここに本陣を置いて数日間滞在し、御茶会や歌の会、能の会を開いて豪遊したことでも名高い。

この場所は「一目千本」といって、春の桜の頃には千本の桜が咲き誇っている景色が見渡せる場所である。豊臣秀吉はここからの景色に感動し、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と子供のように喜ばれたそうである。
吉水神社をあとにして、次の世界遺産の吉野水分神社に向かう。

上千本あたりから蔵王堂が見渡せる。この辺りの景色はすばらしい。
桜の時期は人も多かったが、この時期に水分神社を訪れる人は少ないようだ。

この神社は神仏習合の時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされて金峯山寺に属する神社として修験道の行場の一つとされていたのだが、明治の神仏分離により金峯山寺から独立したそうだ。
平安時代の中頃から「子守明神」とよばれ、豊臣秀吉もここに来て秀頼を授かったと言われている。現在の社殿は慶長10年(1605)に秀頼により創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

また本殿には「木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像」という鎌倉時代の神像彫刻があり国宝に指定されているが、神社の神体であるために公開はされていない。
続いて、次の世界遺産の金峯神社に向かう。吉野水分神社からここまでの1.6kmは上り坂が続き正直言って楽ではなかった。
金峯神社の創建の経緯などは不明なようだが、平安時代に金峯山は金鉱のある山として信仰され、平安時代に関白藤原道長が参詣したことが「栄華物語」に記されているそうだ。

画像は金峯神社の鳥居と拝殿だが、この神社が所有し京都博物館に寄託されている国宝「金銅藤原道長経筒」はこの神社の境内から発掘されたものだそうだが、神社が経筒を所有しているのが面白い。

金峯神社の左の道を抜けると、文治年間に源義経が弁慶ほか家来と共に塔内に隠れて一時難を免れたという「義経隠れ塔」(別名「蹴抜塔(けぬきとう)」)が境内にある。この建物は付近の堂塔中唯一残された鎌倉時代の建造物として国宝に指定されていたのだが、明治29年に惜しくも焼失し、現在の建物は大正時代に再建されたものだそうだ。

「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)の図を見ると、この塔の焼失前は三重塔だったらしい。この図の右側に「金精大明神」とあるのは「金峯神社」のことで、この絵図の左上に描かれている「安禅寺」は廃仏毀釈で毀された経緯にある寺だ。
水分神社から金峯神社に向かう道の途中でも牛頭天王社跡があり、水分神社のすぐ近くには世尊寺跡があったが、いずれも明治になって毀された寺である。これだけの寺院が廃仏毀釈で破壊された中で、よくぞ金峯山寺を残すことが出来たものだとつくづく思う。
明治6年には教部省から「蔵王堂並びに仏具仏体等、悉く皆、取除き致すべき事。」という通達も出ているのだが、吉野の人々はずっと明治政府に抵抗してきたのだ。その抵抗がなければ、我々は蔵王堂も蔵王権現像もこの時に失っていたと思うのだ。
文化財のほとんどは、ただ残ってきたというのではない。戦乱や廃仏毀釈の嵐の中を、人々の信仰に支えられて、必死に守られることによって今の世に残されてきていることを忘れてはならないのだと思う。
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「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されたのは平成16年(2004)だが、この時に世界遺産に登録されたのは、①吉野・大峯②熊野③高野山のそれぞれの霊場とそれらの参詣道で、吉野山における世界遺産の構成資産は、金峯山寺だけでなく、吉水神社(よしみずじんじゃ)、吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)、金峯神社(きんぷじんじゃ)の寺社の他に大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)および吉野山全体もあわせて登録されている。
金峯山寺の蔵王権現を見たあとで、前回の旅行では時間がなくて充分に見ることが出来なかった吉野山の世界遺産を訪ねようと歩き始める。
金峯山寺から500mも歩けば吉水神社(よしみずじんじゃ)がある。

今は神社になっているが、もともとは「吉水院(きっすいいん)」といって、今から1300年ほど前の白鳳年間に役行者(えんのぎょうじゃ)が修験僧の僧坊として創建した寺院であった。鳥居はあるのだが、入口にはいかにもお寺のような門が残っている。

上の図は江戸時代の末期から明治初期の間に描かれたとされる「南朝皇居之地吉野山吉水院境内之図」であるが、これをみれば神社に改める前の「吉水院」の境内がどうだったかを知ることが出来る。
南北朝時代の延元元年(1336)後醍醐天皇が吉野に潜幸された時に、この吉水院に行宮(あんぐう:一時的な宮殿として利用された施設)を設けて以来、吉野は56年間にわたり南朝の帝都となったのだ。この後醍醐天皇を吉野に迎え入れたのが、この吉水院の住職であった吉水宗信法印である。

吉野の人々は後醍醐天皇に味方すれば足利幕府の怒りを買い、平和な吉野が戦争に巻き込まれることを恐れて反対した人が多かったそうだが、吉水宗信法印は「この吉野は壬申の乱において天武天皇に御味方した歴史がある。」「後醍醐天皇と共に火の中で死すとも恥にはならないが、損得勘定で逃げたら、恥は千載に残す。」「吉野が勤王であるのだから筋を通すべきだ。反対する者があらば、私を殺してから反対されよ」と全身烈火のごとくの形相で叫び、反対する吉野人を説得したのだそうだ。
しかし後醍醐天皇は、延元4年(1339)に夏風邪をこじらせて病床につかれ、肺炎を併発されて、吉水宗信法印らの看病の甲斐なく8月16日についに崩御された。
「玉骨(ぎょっこつ)はたとえ南山(なんざん)の苔に埋もるとも、魂魄(こんぱく)は常に北闕(ほっけつ)の天を望まむと思ふ」という天皇の遺言が残されている。
玉骨は天皇の肉体、魂魄は天皇の魂を、南山は吉野山、北闕は京都をさしている。後醍醐天皇の悲願は、この地に留まりながらもいつかは京都に帰るという思いをずっと抱いておられたのだ。
後醍醐天皇の崩御を知った足利尊氏は高師直に吉野を襲わせ、この時に金峯山寺蔵王堂を始め吉野全山が焼失してしまったが、吉水宗信法印らが後村上天皇を支えて吉野は復興したのである。
このように吉水院は吉野の歴史に欠かせない寺院だったのだが、明治元年の神仏分離令に続く修験道廃止令により一時は廃寺となってしまう。ところが明治7年(1874)にこの場所で建武中興の理想が成就されたとして、明治政府より「後醍醐天皇社」という名で創立が許可され、翌年に「吉水神社」に名称を改めて存続し現在にいたっている。
明治になるまではこの吉野山には100以上のお寺があったらしいのだが、今残っているのは8寺のみだそうだ。明治政府により半ば強制的に神社に変えられてしまった吉水神社だが、どんな形であれ文化財が残されたことは良かったと考えるべきなのだろう。

ここが吉水神社の本殿であるが、以前は吉水院の本堂であったようだ。今はもちろん仏像はなく、後醍醐天皇と楠正成、吉水院宗信法印を主祭神としている。
その隣に、今は楠正成を祀る祠があり、その隣に書院がある。

この建物は、初期書院建築の傑作と言われており、国の重要文化財に指定されている。中に入ると「源義経潜居の間」と呼ばれる部屋があり、義経が使った鎧の「色々威腹巻」(国指定重要文化財)がガラスケースに展示され、静御前の衣装などが展示されている。

文治元年(1185)源義経は、兄である源頼朝の追手を逃れてこの吉野に潜入され、この書院にしばらく留まったのだが、ここでも追討を受けたために静御前と別れ、東国へ脱出したと伝えられている。

敵である頼朝を前にして、義経との別離を静御前が歌った和歌が残されている。
「吉野山 峰の白雪 踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」
人の跡というのはもちろん義経のことで、この吉水神社は義経と静御前のロマンスの舞台なのである。
そしてすぐ近くに後醍醐天皇の玉座がある。

書院の中には、ほかにも掛け軸や屏風や能面などさまざまな文化財が展示されている。
また吉水神社は、豊臣秀吉が吉野で花見をした時にここに本陣を置いて数日間滞在し、御茶会や歌の会、能の会を開いて豪遊したことでも名高い。

この場所は「一目千本」といって、春の桜の頃には千本の桜が咲き誇っている景色が見渡せる場所である。豊臣秀吉はここからの景色に感動し、「絶景じゃ!絶景じゃ!」と子供のように喜ばれたそうである。
吉水神社をあとにして、次の世界遺産の吉野水分神社に向かう。

上千本あたりから蔵王堂が見渡せる。この辺りの景色はすばらしい。
桜の時期は人も多かったが、この時期に水分神社を訪れる人は少ないようだ。

この神社は神仏習合の時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされて金峯山寺に属する神社として修験道の行場の一つとされていたのだが、明治の神仏分離により金峯山寺から独立したそうだ。
平安時代の中頃から「子守明神」とよばれ、豊臣秀吉もここに来て秀頼を授かったと言われている。現在の社殿は慶長10年(1605)に秀頼により創建されたもので、国の重要文化財に指定されている。

また本殿には「木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像」という鎌倉時代の神像彫刻があり国宝に指定されているが、神社の神体であるために公開はされていない。
続いて、次の世界遺産の金峯神社に向かう。吉野水分神社からここまでの1.6kmは上り坂が続き正直言って楽ではなかった。
金峯神社の創建の経緯などは不明なようだが、平安時代に金峯山は金鉱のある山として信仰され、平安時代に関白藤原道長が参詣したことが「栄華物語」に記されているそうだ。

画像は金峯神社の鳥居と拝殿だが、この神社が所有し京都博物館に寄託されている国宝「金銅藤原道長経筒」はこの神社の境内から発掘されたものだそうだが、神社が経筒を所有しているのが面白い。

金峯神社の左の道を抜けると、文治年間に源義経が弁慶ほか家来と共に塔内に隠れて一時難を免れたという「義経隠れ塔」(別名「蹴抜塔(けぬきとう)」)が境内にある。この建物は付近の堂塔中唯一残された鎌倉時代の建造物として国宝に指定されていたのだが、明治29年に惜しくも焼失し、現在の建物は大正時代に再建されたものだそうだ。

「和州芳野山勝景図」 正徳3年(1713)の図を見ると、この塔の焼失前は三重塔だったらしい。この図の右側に「金精大明神」とあるのは「金峯神社」のことで、この絵図の左上に描かれている「安禅寺」は廃仏毀釈で毀された経緯にある寺だ。
水分神社から金峯神社に向かう道の途中でも牛頭天王社跡があり、水分神社のすぐ近くには世尊寺跡があったが、いずれも明治になって毀された寺である。これだけの寺院が廃仏毀釈で破壊された中で、よくぞ金峯山寺を残すことが出来たものだとつくづく思う。
明治6年には教部省から「蔵王堂並びに仏具仏体等、悉く皆、取除き致すべき事。」という通達も出ているのだが、吉野の人々はずっと明治政府に抵抗してきたのだ。その抵抗がなければ、我々は蔵王堂も蔵王権現像もこの時に失っていたと思うのだ。
文化財のほとんどは、ただ残ってきたというのではない。戦乱や廃仏毀釈の嵐の中を、人々の信仰に支えられて、必死に守られることによって今の世に残されてきていることを忘れてはならないのだと思う。
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