五條市に天誅組と南朝の歴史を訪ねて~~五條・吉野の旅その1
栄山寺は、藤原不比等(ふひと)の長子である武智麻呂(むちまろ)が養老3年(719)に創建したと伝わり、その後、武智麻呂を祖とする藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで大いに栄え、南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行宮*(あんぐう)が置かれていた歴史があるという。
*行宮:天皇の、行幸時あるいは、政変などの理由で御所を失陥しているなどといった場合、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設の事。行在所(あんざいしょ)、御座所(ござしょ)、頓宮(とんぐう)とも言う。
境内を少し進むと国宝に指定されている平安時代の梵鐘がある。小野道風(おののとうふう)の書と伝えられる銘文から延喜17年(917)11月3日に鋳造されたものであることがわかっている。

本堂には本尊の木造薬師如来坐像(国重文)がある。たまたま春の御開帳の時期にあたっていて、ラッキーだった。本堂・八角堂は春(4/25~5月第3日曜)と秋(10/25~11月第3日曜)と正月(3が日)に御開帳され、今年の春の御開帳は5月26日までである。
http://inori.meguru-nara.jp/hihou/result.php?e=30
上記URLに御本尊の画像があるが、木造薬師如来坐像(国重文)は室町時代永享3年(1431)に制作されたもので、仏像だけでなく後背も金色が驚くほど鮮やかだった。また左右に並んでいる木造十二神将立像(国重文)も室町時代に制作されたものである。
本堂前には鎌倉時代に建立された石灯籠があり、この石灯籠も国の重要文化財に指定されている。
先日訪れた時は新緑の緑が鮮やかであったが、秋の紅葉の時期もきっと素晴らしいだろう。そして裏山の山頂には藤原武智麻呂の墓があるという。

これが国宝の八角堂だが、御開帳の時期だったので、中にも入ることが出来た。かなり剥落してしまってはいるが、内陣の天蓋や柱などには装飾画が描かれていて、この装飾画も国の重要文化財に指定されている。
この栄山寺にはほかにも貴重な文化財が多数残されているが、すばらしい文化財を、昔から安置されていた場所で、古いままの姿で、仏像ならば祈りの空間の中で間近に鑑賞しながら、古き時代を偲ぶことができることはありがたいことだ。
栄山寺を出て国道24号線に向かって600m程走ると右に折れる細い道があり、しばらく進むと「宇智川磨崖碑(うちがわまがいひ)」の入口がある。
この磨崖碑に彫られているのは「大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」というお経の一部で、彫られた時期は宝亀7年か9年(776か778)で、その頃はこのあたりも栄山寺の境内であったのだそうだ。

私はこの宇智川を渡るのを諦めたので、対岸からは彫られた字が岩のどこにあるかよく解らなかったのだが、次のURLには写真などで詳細にレポートされている。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/7460/nara-gojyou-utigawahi.html

次に車を五條市立民俗資料館に進める。
江戸時代は、奈良県五條市は徳川幕府の直轄地で、現在の五條市役所の場所に五條代官所があったという。この民俗資料館は江戸末期には五條代官所の長屋門だった建物である。
文久3年(1863)8月17日に尊王攘夷派の天誅組(てんちゅうぐみ)によって五條代官所が焼き討ちにされる事件が起こった。この事件は立場により「天誅組大和義挙」と呼んだり「天誅組の変」と呼んだりするのだが、この資料館には天誅組に関する多くの資料が展示されている。
そして今年はこの事件が起こってからちょうど150年の節目の年になるので、各地でイベントが企画されているようだ。
しかし天誅組のことは、一般的な歴史叙述からほとんど無視されており、私も最近までほとんど何も知らなかった。どんな事件であったのか、Wikipediaなどを参考にして簡単に振り返ってみよう。
徳川幕府が外国勢力に屈して開国した後、幕府勢力に対抗する旗頭として朝廷を担ぎ出す動きが広まり、脱藩した武士たちが尊王攘夷の中心となっていた長州藩に集まり、攘夷派公卿とともに反幕活動を活発化させていった。
この事件が起こった文久3年(1863)には、孝明天皇の勅命を以て幕府に攘夷を迫り、朝廷の権威を高めるために孝明天皇は賀茂神社・石清水八幡宮と2度の行幸をされている。さらに3度目の行幸として大和(奈良)に行幸するという詔が8月13日に発せられた。

ここで先に大和入りして天領である五條を平定しようと、中山忠光(明治天皇生母・中山慶子の実弟)、土佐脱藩吉村寅太郎、刈谷脱藩松本奎堂・備前脱藩藤本鉄石ら38名の同志が五條に向かった。これが「天誅組」である。当時の記録によると38名の内18名が土佐脱藩浪士、8名が久留米脱藩浪士であったそうだ。
彼らは8月17日に五條代官所を襲撃し鈴木源内ら役人を殺害し、櫻井寺に本陣を置き五條を天朝直轄地とする旨宣言して「五條新政府」を置いた。
ところが、尊王攘夷派のやり方に反発する薩摩藩と会津藩とが、討幕に繋がる今回の行幸を阻止しようと手を組み、8月18日に宮中でクーデターを起こしたのである。(8月18日の政変)
そのために朝廷の人事変更と孝明天皇の奈良行幸が、急遽中止されることとなり、長州藩と尊王攘夷派公卿たちは京都から追放されてしまう。
わずか1日で、天誅組は、皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたのである。
彼らの軍議で決まったのは、解散ではなく徹底抗戦。いずれ尊王攘夷派が決起することを信じて抗戦し、武力討幕が可能であることを証明し、たとえ途中で倒れても、続く者の為に捨て石になることを選択したのである。
総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿一円の藩に出動命令を出して約1万の兵を動員し、天誅組は命からがら十津川へ撤退し、その後大峰山を超えて下北山村に出て、9月27日に吉村寅太郎が東吉野で討たれたのを最後に壊滅してしまった。
彼らの善戦は時代を変える突破口になり「明治維新の魁(さきがけ)」となったという評価は正しいと思う。
その後生野義挙、禁門の変などがおこり、時代は武力討幕へと移っていく。そして4年後、徳川幕府が倒れ明治新政府が誕生した。彼らは自ら新時代を見ることなく散っていったのである。

上の画像は天誅組の本陣が置かれた櫻井寺である。現在はコンクリート造りのモダンな建物だが、当時の堂宇は国道24号線が計画された時に撤去され、神奈川県箱根町に移築されたのだそうだ。境内には五條代官であった鈴木源内らを殺害した後首を洗ったという「首洗いの石手水鉢」が残されている。

五條市の「新町通り」は、江戸時代の情緒漂う古い町並みが残されていて一見の価値がある。電柱と電線くらいは地中に埋めてほしいところだが、漆喰塗の壁や虫籠窓、格子の家々の連なる通りを歩くと、タイムスリップしたような気分になる。
「新町通り」に沿って歩くと古い家並みが続くが、第一次吉田内閣の司法大臣などを勤めた木村篤太郎の生家が「まちや館」として公開されており、木村篤太郎の写真や勲章などが展示されている。さらに行くと「まちなみ伝承館」という施設があり、昔の五條市内商店の「引き札」(ポスターのようなもの)や、雛人形などが展示されていた。

また新町通りの入口あたりには、国の重要文化財に指定されている栗山邸がある。棟札には慶長12年(1607)の銘があり、建築年代のわかっているものでは日本最古の民家なのだそうだが、公開されていないのは残念だった。

昼食に柿の葉寿司で腹ごしらえをしてから、五條市西吉野町にある「賀名生(あのう)の里歴史民俗資料館」に車を進める。ここには南朝の宝物や天誅組の資料などが展示されている。

この隣にある立派な茅葺の家が堀家住宅(国重文)で、南北朝時代に3代にわたり天皇の皇居になったとされている。今も住居として利用されているために、中に入るには事前に往復はがきを送付して堀家の訪問許可を得る必要があるのだそうだが、門には天誅組の吉村寅太郎の筆になる「皇居」と書かれた扁額が掛けられていた。

堀家背後にある丘陵上に黒木御所が造られたとされ、「南朝三帝賀名生皇居之址」と書かれた石碑があり、その近くに『神皇正統記』を著して後村上天皇のために南朝の正当性を主張した北畠親房の墓がある。

延元元年(1336)後醍醐天皇が足利尊氏の謀反により吉野に遷られてから、後亀山天皇が京都に戻られた元中9年(1392)までの57年間を南北朝時代と呼ぶのだが、その間南朝の皇居が転々と遷って行ったことを、今回の旅行の下調べで初めて知った次第である。
Wikipediaに南朝の行宮がどのように遷って行ったかが書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E8%A1%8C%E5%AE%AE

後醍醐天皇は吉野山の吉水院に入られたのち金峯山寺の塔頭・実城寺を「金輪王寺」と改名して行宮とされたのだが、この場所で延元4年(1339)に後村上天皇に譲位した直後に崩御され、正平3年(1348)には高師直率いる室町幕府軍が吉野に侵入して行宮を焼き払い、後村上天皇は賀名生行宮に移られたという。
その後長慶天皇が文中2年(1373)に吉野に行宮を戻すも長く維持することが出来ず、天授5年(1379)には今回の記事の最初に記した栄山寺に行宮を移されている。
その後、元中9年(1392)に南北朝合一を迎えるまでは賀名生などに行宮が置かれたと推定されるとある。
南朝のことをよく「吉野朝」というのだが、南朝56年の歴史の中で、吉野に行宮が置かれたのはわずかに20年弱だったとは知らなかった。
しかし、南北朝の合一で全ての問題が解決したわけではなかった。
歴代天皇が承継してきた三種の神器を北朝の後小松天皇に渡したあとは、南朝の後亀山天皇は冷たい仕打ちを受け、以後は大覚寺統(北朝)と持明院統(南朝)が交互に天皇の位につくという約束であるのに皇太子すら立てることもできなかったし、国衙領を支配しても良いという約束も守られなかった。怒った後亀山天皇は再び吉野に戻ったのだが、南北朝合一の事実は残り、以後は北朝系によって天皇位が独占されてしまう。
そして、その後も南朝の子孫は反幕勢力に担がれたりしながら、応仁の乱の頃まで南朝復興運動が続けられたという。吉野の山奥にはその歴史が刻まれているのだ。
<つづく>
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