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金閣寺と足利義満の野望

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Category室町幕府
幕末から明治にかけて外国人も含め多くの写真師が写真館を開業し、慶応2年に来日したイタリア生まれ英国籍のフェリックス・ベアトが撮影した日本の景色や風俗の写真が、横浜のファーサリ商会に引き継がれて明治23年(1890)に写真帖が出版されている。その写真帖の貴重な当時の写真が早稲田大学の次のURLに紹介されている。
http://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/farsari/index.html

金閣寺1890

上の画像は、ファーサリ商会の写真帖にある金閣寺の写真だが、金閣寺は昭和25年(1950)の7月2日に学僧・林承賢(当時21歳)の放火により焼失してしまった(金閣寺放火事件)。焼失以前はすっかり金箔も黒漆も剥がれてしまっていて、それはそれで趣きを感じさせる建物であった。
金閣寺焼失

また、ネットでは焼失直後の画像も紹介されている。
http://otona.yomiuri.co.jp/history/090702.htm

焼失後金閣寺は昭和27年(1952)から3年かけて復元され、昭和30年(1955)に再建されたが、その後金箔が剥落して下地の黒漆が見えるようになり、その黒漆も劣化してきたために、昭和61年(1986)から翌年にかけての「昭和大修理」で、金箔の張り替えや黒漆の塗り替えが行われた。

金閣寺2011春

上の画像は今年の春に金閣寺に行った時に写したものだが、昭和の大修理から25年経っても、まだまだ金閣寺は色褪せることなく完璧な美しさだ。

金閣寺の歴史を調べると、この場所は鎌倉時代の元仁元年(1224))に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘「北山第(ほくさんてい)」を営み、それ以来西園寺家が代々所有していたのだそうだが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を企てたという容疑をかけられて処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E8%8B%91%E5%AF%BA

そこで室町幕府第三代将軍である足利義満が応永4年(1397)に西園寺家からこの北山第を譲り受け、舎利殿(金閣)を中心とする山荘「北山殿(きたやまどの)」を造営し、この場所で政務を行ったという。

義満の死後大塔が焼失し、義満の子である義持は寝殿や仏殿、書院、不動堂等の建物を解体して舎利殿のみを残し、舎利殿を義満の遺言により禅寺とし、義満の法号「鹿苑院」から「鹿苑寺」と名付た。これが寺院としての「金閣寺」の始まりとされている。

ところで、この金閣寺を建てた第三代将軍足利義満については、その死が不自然であり「暗殺されたのではないか」という説があるようだ。この話は興味深いので少し詳しく書いて見たい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%BA%80

足利義満は征夷大将軍の座を父の義詮から引き継ぐと、朝廷と幕府に二分化されていた行政権を握り、配下の守護大名に睨みをきかせ、相手の内紛に乗じて権力を掌握していく。 明徳元年(1390)には土岐氏、翌年には山名氏清を討伐し、明徳3年(1392)には、南北朝を統一した。
そして応永元年(1394)には、将軍職を嫡男の義持に譲り、同年に太政大臣に昇進している。 この時点で義満は武家の最高位である征夷大将軍と、公家の最高位である太政大臣とを同時に手にしたことになる。

足利義満像

また、義満は若いころから明への憧憬を深く抱き、明との正式な通交を望んでいたが、明は天皇の臣下との通交は認めない方針のため、幕府との交渉は実らなかった。そこで義満は応永元年(1394)12月に太政大臣を辞して出家し、これにより義満は天皇の臣下ではない自由な立場となる。
応永8年(1401)、明の建文帝は義満を日本国王に冊封し両国の国交が正式に樹立されて、日本国王が皇帝に朝貢する形式をとった勘合貿易が1404年(応永11年)から始まる。 しかし、義満が明皇帝の臣下となる朝貢貿易を始めたことに対して、公家からの不満や批判がかなり多くあったという。

義満はさらに宗教界の最高位である皇位の簒奪を狙っていたという説が明治期から田中義成氏により唱えられている。義満自身が天皇となることを狙っていたのではなさそうだが、少なくとも実子の義嗣を天皇とすることを狙っていたふしがある。

義満は応永13年(1406)に、自分の2番目の妻である日野康子を後小松天皇の准母(じゅんぼ:天皇の母の代わり)とし、義満の参内や寺社への参詣にあたっては、天皇の父である上皇と同様の礼遇を求めるなど自ら准太上天皇*(じゅんたじょうてんのう)として振舞い、義嗣(父:義満、母:日野康子)を天皇の御猶子(ごゆうし)つまり名目上の天皇の子供として「若宮」と呼ばせていた。(*太上天皇:皇位を後継者に譲った天皇)
応永15年(1408) 3月に北山第へ後小松天皇が行幸したが、義満の座る畳には天皇や院の座る畳にしか用いられない繧繝縁(うんげんべり)が用いられた。
その年の4月25日には自分の子供の義嗣の元服の儀を後小松天皇のご臨席のもとに宮廷の清涼殿で行っている。この時の衣服は天皇より賜り、式次第は親王と同じであったというのだ。

しかし、ここで不思議な事が起こる。
義嗣の元服式が行われた二日後の4月27日に義満は発病し、5月3日にはいったん持ち直したが、再び病状が悪化し、5月6日に51歳で亡くなっている。これは偶然だとしても、あまりにもタイミングが良すぎる。
例えば井沢元彦氏は毒殺説で、著作の中で犯人を世阿弥と二条満基の共犯と推理しているそうだが、当時の公家の日記などには義満の行為が皇位簒奪計画の一環であるとしたり、その死を暗殺と疑った記録はなく、直接の証拠はないのだそうだ。また、皇位簒奪のために最大の障害となるはずの後小松天皇の皇子に対して、何らかの圧力があったとの記録もない。

とは言いながら、もし義満がもう少し長生きすればその政治的権力によって、天皇家とは全く血縁関係にない義嗣が天皇となる可能性はあったのである。
しかし義満は死んでしまった。また義満の嫡男で将軍の義持は、父義満に偏愛された異母弟の義嗣のことを良く思っていなかった。
応永23年(1416)に将軍義持は、関東における内紛を利用して兄を討とうとした義嗣を捕えて相国寺の林光院に幽閉し、応永25年(1418)に建物もろとも焼き殺してしまっている。

250px-Ashikaga_Yoshimochi.jpg

その後4代将軍義持は、父・義満とは異なる道を歩み始める。
義満の死後に、朝廷から義満に対して「鹿苑院太上法皇」の尊号が宣下されたが、義持は「そんな破格な尊号をもらった臣下はない」と言ってそれを返上し、後小松天皇の准国母日野康子(弟義嗣の母)が亡くなった時も葬式を簡単に行い、義満が始めた勘合貿易も取りやめ、北山殿の建物も舎利殿(金閣)を残して殆どを取り崩し、庭石まで崩してしまった。
この義持によって、再び武家としての節度を回復し、室町幕府は政治的な安定を取り戻すことになるのである。

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