『明暦の大火』の火元の謎を追う

この大火の様子が『むさしあぶみ』という当時の書物に詳細に記載されている。
作家隆慶太郎氏が、自らの歴史小説で参考にした史料をHPの「文献資料室」で公開しておられて、『むさしあぶみ』の「明暦の大火」の記述の一部を原文で読むことができる。
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg146.html
そこには、
「…去年霜月の比より今日にいたるまて。既に八十日ばかり雨一滴もふらて乾切たる家のうへに。火のこ(粉)おちかゝりはげしき風に吹たてられて。車輪のごとくなる猛火地にほとはしり。町中に引出し火急をのがれてうちすてたる車長持ハ。辻小路につミあひひしめく間に。猛火さきさきへもえ渡りしかバ目の前に京橋より中橋にいたるまで。四方の橋一度にどうど焼落る。…」
と、前年の11月以来80日ばかり雨が降らず、空気が乾燥していたうえに当日は朝から強い風が吹いて、炎が「車輪のように」渦を巻き地を這うように延焼していった様子が記されている。
以前このブログで、関東大震災の時に東京で「火災旋風」が発生したことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-23.html

Wikipediaによると「火災旋風」とは、「地震や空襲などによる都市部での広範囲の火災や、山火事などによって、炎をともなう旋風が発生し、さらに大きな被害をもたらす現象。鉄の沸点をも超える超々高温の炎の竜巻」で、激しい炎が空気(酸素)を消費し、火災の発生していない場所から空気を取り込むことで螺旋状に局地的に上昇気流が起こる。
関東大震災の火災旋風の大きさは高さが100m~200mとも言われており、その風速によって直径30cm以上の木がねじ折られたことから秒速80m前後の火災旋風が発生したと推測されているのだが、「車輪のごとくなる猛火」という表現から「明暦の大火」でもこの火災旋風が起こったことが推測される。
『むさしあぶみ』には、次のような記述もある。
「おびたゝしき旋風ふきて。猛火さかりになり。十町廿町をへだてゝ飛こえ飛こえもえあがりもえあがりけるほどに。前後さらにわきまえなく。諸人にけまどひて焔にこがされ煙にむせび。…あそこ爰の堀溝に百人弐百人ばかりづゝ死にたをれてなしといふ所もなし。」
1町は109.09mであるから、火炎が1~2km近く飛び越えて延焼していったというのは誇張もあるかもしれないが、火炎が長距離を飛ぶことは火災旋風の典型的な現象で関東大震災でも実際にあった事なのである。

次のURLで明暦の大火で焼失した地域が特定されているが、炎は江戸城の御濠を飛び越えて江戸城の天守閣や本丸御殿などを焼き払い、江戸城で焼けなかったのは西の丸だけであった。さらに火災旋風は隅田川をも飛び超えて、対岸の深川地区をも延焼させていることがわかる。大きな公園や川があっても、火災旋風が起これば風向き次第で火はそれくらいの幅を飛び越えて行くものなのだ。
http://imai-aud.co.jp/Bieyasu.htm

この明暦の大火を「振袖火事」とよく言われるのは、恋の病で臥せったまま2年前の1月18日に死んでしまったウメノという若い女性の振袖がキノという手に女性わたり、キノも翌年の1月18日に亡くなり、その振袖が今度はイクという女性の手に渡ったのだがイクも次の年の同じ日に死んでしまった。そこでこの振袖を本妙寺で供養することとなり、火の中に投げ込んだところ、つむじ風によって振袖が舞い上がり、本堂に飛び込んで燃え広がったという言い伝えがあることによる。
この「振袖火事」の物語は言うまでもなく後世の作り話なのだが、この明暦の大火の出火元については江戸本郷丸山町の本妙寺とほとんどの本に書かれている。上の地図で見ると、火元は3か所あるようだが、最初の火元は本妙寺だ。
ところが、この大火の火元とされている本妙寺のHPには驚くべきことが書かれている。重要な部分を引用してみる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/
「…しかし、本当は本妙寺は火元ではない。幕府の要請により(本妙寺が)火元の汚名をかぶったのである。
理由は、当時、江戸は火事が多く、幕府は 火元に対しては厳罰をもって対処してきたが、 当山に対しては一切お咎めなしであった。
それだけでなく、大火から三年後には 客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興し、 十年後には当山が日蓮門下、勝劣派の 触頭(ふれがしら)*に任ぜられている。
(*触頭とは、幕府からの通達を配下の寺院への伝達や、本山や配下の寺からの幕府への訴願、諸届を上申達する役)
これはむしろ異例な厚遇である。
さらに、当山に隣接して風上にあった老中の 阿部忠秋家から毎年当山へ明暦の大火の供養料が 大正十二年の関東大震災にいたるまで260年余に わたり 奉納されていた。
この事実からして、これは一般に伝わる 本妙寺火元説を覆するものである。」

本妙寺の主張は、本当の火元は老中の阿部忠秋であり、本妙寺は幕府の要請により本妙寺が火元を被ったと言っているのだ。当時の風向きと阿部忠秋家と本妙寺との位置関係をしめす地図が、本妙寺のHPで紹介されている。それぞれはほとんど隣同士にあり、老中の阿部邸のほうが風上に位置していることがわかる。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/ezu.htm
明和9年(1772)の目黒行人坂の大火の時には、火元となった大円寺は無宿者の放火であったにもかかわらず50年間再建が許されなかったのだそうだが、本妙寺がこの時に何の罪も問われなかったのはどう考えてもおかしなことだ。
またこの明暦の大火の後に69の寺院が移動を命ぜられたのだが、火元となった本妙寺が本郷から動かなかったのも理解しがたい。
そもそも阿部家の菩提寺は浅草蔵前の浄土宗西福寺で、本妙寺の檀家ではなかったようだ。
また幕府は、明暦の大火の後に、大火の犠牲者となった人々を供養する目的で、両国に回向院という寺を設立している。ならば、阿部忠秋家が供養料を奉納すべき寺院は回向院ではないのか。
この阿部家の供養料は半端な金額ではなかったらしいのだが、檀家でもない阿部家が何故260年余にわたり本妙寺に奉納したかは大きな謎である。
本妙寺のHPにはさらに詳しいレポートがリンクされている。
http://www6.ocn.ne.jp/~honmyoji/taika/hurikaji.pdf
これによると
「大火の処理にあたっては、筆頭老中松平伊豆守や久世大和守等が中心となって協議の結果、この大災害が阿部家の失火が原因とあっては、阿部忠秋が老中という幕府の中枢にあることを考えると、大衆の怨恨の的になることは必至であり、ひいては幕府の威信の失墜は免れず、以後の江戸復興等の政策遂行に重大な支障を招く結果につながりかねない。阿部家の責任を追求するより、大混乱を静め、江戸を復興させ、幕府の威信を保つことが大切であるとの結論にたっし、阿部家と隣接して風下にあった本妙寺に理由を説明して、阿部家に代わって失火の火元という汚名を引受けることを要請し、本妙寺も幕府の要請に応じて火元の汚名を引き受け、幕府の威信の失墜を防ぎ、その後の政策遂行に支障をきたさないよう協力し、ひいては、阿部一族を失火の責任から救うという結果につながったわけである。」との説明だ。

この説明では明暦の大火は阿部家の失火が原因であり、その責任を被った本妙寺が優遇されたことはある程度説明がつくのだが、つい先程指摘したように火元がほかに二箇所ある。本妙寺が焼けた翌日に、風上の火の気のない場所で二箇所も新たな火災が発生したのは極めて不自然な事で、普通に考えれば放火があったと考えるべきだと思うのだが、当時の幕府の記録では放火犯を捕まえた記録はない。
『徳川実紀』には正月二十四日に神田の牢人有賀藤五郎という人物を挙動不審で捕まえているが、その牢人を処罰した記録はないそうだ。
そこで幕府が放火に関与しているのではないかという説もあり、それが結構有力説となっているようだ。
先程の本妙寺のレポートにも紹介されているが、江戸災害史研究家の黒木喬氏によると、明暦の大火は江戸幕府が関与し、その黒幕は松平信綱だと推定しておられるのだがこのレポートは結構面白い。この説は、新人物文庫の『仕組まれた日本史』の中でも黒木氏本人がレポートしておられるので、内容を紹介してみよう。
久世広之という人物がいる。将軍家綱に仕え老中まで上り詰めた大名で、延宝七年(1679)に71歳で没し四谷の別邸に葬られたのだが、後に広之の子の重之が本妙寺を菩提寺にし、広之の戒名を「中興檀越自證院殿心光日悟大居士」としている。「中興檀越」という字は、久世広之が本妙寺の中興に大きく貢献した檀家であったことを意味する。子の久世重之も老中にまで上り詰めた人物だが、何故広之が「中興檀越」なのか。
久世広之がスピード出世を遂げたのは、都市計画を担当していた老中松平信綱に目をかけられてからだと言うから興味深い。
慶安五年(1652)に広之は江戸府内の巡検を行い、『承応録』によると、旗本で屋敷を持たぬ者が600人いて、この日の巡検で約400人分を確保したという。翌年には築地奉行が任命されて、不足する武家屋敷地を造成するために、赤坂・小石川・小日向などの山の手方面の水田や木挽町海岸の埋め立てが開始され、明暦元年(1655)には広之は寺社奉行・町奉行・勘定頭とともに宅地点検を実施するなど、松平信綱の都市政策に深くかかわっていたようなのだ。
そして明暦二年の七月十一日には、六月に任命されたばかりの屋敷小割奉行を加えたメンバーが信綱邸に集結しているのだが、この日に松平信綱が江戸城に登城していないこともわかっている。余程重要な都市計画の大綱が信綱邸で議論されたのではないかと黒木喬氏は推定している。明暦の大火はこの会議から半年後に起こっている出来事なのだ。
黒木氏の表現を借りると、
「昔も今も都市計画の実行は補償費がばかにならない。日本橋人形町にあった吉原遊郭の浅草移転だけで一万五百両(一説では一万五千両)が支出されている。計画を迅速に達成するには、大きな火事がおこって、きれいさっぱり焼けてくれるのが一番よいのである。」
実際に幕府が放火に関与したとの証明はできないが、きれいに焼けて欲しいぐらいのことを強く期待していてもおかしくないし、そう解釈しないと説明できないことが多すぎるのである。
「明暦の大火後、道路の拡張、武家屋敷・寺社・町屋の移動、広小路・火除地の設定など、矢継ぎ早に都市改造が断行された。手際が鮮やかだったのは、すでに基本計画が立案されていたからだろう。」となかなか説得力がある。
久世広之は、大火後に江戸城再建の総奉行として活躍し、寛文二年(1662)には若年寄に就任し、その翌年に老中に就任している。
一方本妙寺は寛文六年(1667)に日蓮宗勝劣派の触頭(ふれがしら)職になっているのだが、日蓮宗勝劣派には五派あって、その中で一番大きいのは妙満寺派の五百八十余寺、ついで八品派三百二十余寺、興門派二百九十余寺、本成寺派百八十寺、本際寺派十余寺の順なのだが、本妙寺は少数派の本成寺派に属していながら触頭職に昇進しているのも奇妙なことである。
大火の火元とされながら、また老中の久世広之が檀家でもなかった時期に、なぜ本妙寺が異例の昇進を遂げたかは、老中久世広之らのつながりがなくしてあり得ないと考えるのが自然だろう。
黒木喬氏も書いておられるが、松平信綱も久世広之も、この大火で火災旋風がおこって、江戸城の天守閣も本丸御殿や焼けてしまうとは想定していなかったことだろう。

江戸城の天守閣はこの「明暦の大火」で焼失した後は、二度と建てられることはなかったのだが、江戸の都市計画の実行は淡々と進められたのである。
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