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天誅組の最後の地・東吉野から竹林院群芳園へ~~五條・吉野の旅その2

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Category奈良県
孝明天皇の大和行幸に先行して天皇の鳳輦を迎えようと、文久3年(1863)8月17日に五條代官所を襲って「五條新政府」を置いた天誅組であったが、翌8月18日に宮中でクーデターが起こって長州藩と尊王攘夷派の公卿が京都から追放され、孝明天皇の大和行幸も中止となって天誅組は1日で皇軍御先鋒の大義名分を失い、反乱を起こした賊として討伐を受ける側に立たされたことを前回の記事で書いた。
天誅組行路

総勢100名程度の天誅組征伐に、幕府は近畿一円の藩に出動命令を出して約1万の兵を動員したという。天誅組は十津川から大峰山を越えて下北山村に抜け、川上村から東吉野村に入ると9月24日に追討軍である紀州・彦根藩兵と遭遇した。那須信吾(土佐脱藩)は大将・中山忠光(明治天皇の生母・中山慶子の弟)を逃すべく決死隊を編成して敵陣に突入して討ち死にしたほか、この東吉野村で藤本鉄石(備前脱藩)、松本奎堂(刈谷脱藩)、吉村寅太郎(土佐脱藩)ほか多くの志士たちが数日間の間で無念の最期を遂げた。そして、東吉野には天誅組の事績を伝える碑や墓が、今も村人たちの手により守り伝えられている。

しかし、なぜ天誅組は吉野の山の中で生き延びることが出来たのであろうか。
彼らが「五條新政府」を置いたのは、太陽暦でいえば9月29日である。また那須信吾が討ち死にしたのは太陽暦では11月5日だ。そもそも食糧はどうしたのか、野宿するには朝晩はかなり厳しい季節になっていったではないかと調べていくと、吉野の人々が天誅組を助けた記録がいくつかあるようなのだ。

たとえば次のURLに、天誅組に関する資料が紹介されている。
http://yama46.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-2d45.html
「『吉野郡史料』によると、『川上村上谷ニ、中谷吉左衛門ナル者アリ。<中略>中山卿ノ義ヲ唱フルヤ、志士ト通ジテ、畫策スル所アラントセシモ、病痾ノ為メニ能ハズ、天誅組ノ伯母谷ニ至ルヤ、其家ニ止ルコト三日、旦傷病者ヲ嘱セラレシカバ、小川佐吉以下十余人ヲ家に看病シ、追兵ノ来リ索メン事ヲ恐レテ、其族ト共ニ、之ヲ深林幽谷ノ中ニ潜匿シ、養護セル者六十余日、皆癒ヘ、各々散逸セリト云フ。』
 後日、病臥中の吉左衛門に代わり、その妻カイが五條代官所の白州にて取調を受けたが、尋問だけで仕置はなかったと云う。今、中谷吉左衛門の子孫の家には、小川佐吉の残した当時の武具などがある。(こうだに誌 中谷順一 1986年)より」
天誅組の変

伯母谷というのは現在の吉野郡川上村伯母谷(おばだに)であるが、最近出版された舟久保藍氏の『天誅組の変』を取り寄せると、こう記されている。

「天誅組隊士約30人が伯母谷村へ先着し、隊の到来を村に告げたのは23日夕方であった。伯母谷村の水本家に残る口碑や文書によると、この時、同村の庄屋上田伊左衛門、水本茂十郎、石窪新七郎、泉谷庄三郎らが、上谷(こうだに)村・大迫(おおさこ) 村に呼び掛け、庄屋たちで対応を協議したという。その状況は、…当時の庄屋が生存しているうちに聞き取りまとめられた文書に詳しい。
素より天忠組とは勤王家の義団にして各藩に就いて尊王の趣意を説くものなれば我村また南朝勤王の遺民、宜しく此の時に当たり鞠窮(きっきゅう)力を致し微力ながらも我ら先祖の意思を継ぎ聊か天忠組その人々の便を図らんは、亦以てこの先祖の名に恥ちざるなりと、ここに協議一決して、負傷者の介抱は勿論、糧食の用意、武器の運送等、万事慎重に取り扱い』
後南朝の遺民として同じ勤王の義士である天誅組を支援するのが、先祖に対して恥じない行為であるとの結論に達し、三村を挙げて彼らの面倒をみたのであった。」(『天誅組の変』p.190)

天誅組に対しては9月1日に朝廷からも追討命令がでていた。幕府からは「賊軍」とされ、朝廷からは「朝敵」とされた天誅組に手を差し伸べることは、吉野の村人にとっては命がけではなかったか。下手に匿って追討軍との争いになれば、村ごと火を放たれる可能性もあっただろうし、処罰される可能性は高かったはずだ。
実際、白川村では天誅組に献上された米を運ぼうとした村人が、藩兵により斬首された記録が残されているという。
山深い吉野の民は、南朝の天皇家を助けてきたことを誇りとする人々であった。少数の天誅組が総勢1万もの幕府軍と戦って、予想外に長く持ちこたえた背景には、吉野の尊王の歴史を知る必要がありそうだ。

オオカミ像

賀名生の里歴史民俗資料から1時間近く走って東吉野に入る。途中でニホンオオカミの像があったのでカメラに収めた。明治38年(1905年)当村において捕らえられた若雄のニホンオオカミがわが国における最後の捕獲記録となったのだそうだ。

天誅組義士の碑

その像のすぐ近くに宝泉寺があり、その門前には天誅義士記念碑がある。

宝泉寺

この寺には、天誅組事変の際に、鷲家口(わしかぐち)に布陣した彦根勢が篝火の代わりに寺を焼こうとしたのを、当時の和尚が阻止したという謂れがあるという。またこの寺は、鷲家口の戦いで戦死した天誅組志士や彦根藩士の菩提寺でもあり、今も毎年11月5日には天誅祭が法要されているというのは驚きである。また近くの明治谷墓地には天誅義士たちの墓があり、今も地元の方によって花が供えられている。

天誅組終焉の碑

この場所から北方向に7分ほど車を進めると、「天誅組終焉の地」という大きな碑がある。
横に小さい碑がありこう刻まれていた。

「心を焦がし身を捨てし
壮士は散りて春秋の
うつりはここに百幾十
もみじとともに偲ぶかな

それ南山のさや風に
うそぶき見ずや山月を
夕べに辿る嶮涯に
かよへる夢の浅かりし

秋風ふかし鷲家口
碎けて飛べる黒雲は
北風かえすすべもなく
はかなく消えぬ銃煙に

悲命の志士よ冥すべし
靑史に鑑らし見るところ
ももこせののち今もなほ
まこと盡せし勲しを」

吉村寅太郎の墓

そして、奥に進んでいくと吉村寅太郎の墓がある。
寅太郎は傷が悪化して歩行困難になっていたために一行から遅れて駕籠に乗って鷲家口まできたが、27日に津藩兵に発見されて射殺されてしまったという。墓には今もきれいな花が供えられていた。

昼食が早かったのでお腹がすいてきた。この近くで「きのこの館」という店があるので立ち寄った。宿の夕食のこともあるので、お腹が満腹にならないよう「きのこの網焼き」と「しいたけ造り」を注文したが、どちらも期待以上に旨かった。

きのこの館

この店の隣のスペースで大量のキノコを無菌栽培しており、採りたての新鮮なきのこが食べられる。採りたては味も香りも食感もスーパーなどで買うものとは全く違うことが一口味わうことで解った。しいたけのお造りは、採取して3時間以内に食べないと味が変わってしまうのだそうだ。
今度来る時はきのこのフルコースを注文したいと思う。この店のことは、次のURLの記事が参考になった。
http://small-life.com/archives/08/11/0120.php

つぎに向かったのは天誅組の菩提寺の龍泉寺。

龍泉寺

この寺の住職さんとは随分話が弾んで、随分長い間話し込んでいる内に、寺の宝物である平安時代の木造如来坐像(県重文)を見せて頂いた。この寺の歴史より古い仏像が伝わった経緯についいてはよく解っていないそうだが、貴重な仏像がこんな山奥に残されていることに興味を覚えた。仏像の写真は次のURLに掲載されている。
http://higashiyoshino.com/modules/pico2/index.php?content_id=12

龍泉寺岩松

境内に松の盆栽のようなものが沢山並べられていたが、「岩松」といって苔の一種なのだそうだ。
1年に1mm程度しか成長しないものだそうだが随分大きなものがあり、樹齢千五百年という貴重なものまであることに驚いた。

東吉野から、本日の宿泊先である吉野山山上にある竹林院群芳園に向かう。

竹林院群芳園

この寺の寺伝によると、聖徳太子が開創して椿山寺と号し、その後弘仁年間(810-824)に空海が入り常泉寺と称したが、南北朝の対立後至徳2年(1385)に竹林院と改められたとある。

竹林院本堂

「群芳園」というのは、千利休が作庭し、一説には細川幽斎が改修したと言われるこの寺の庭園で大和三庭園の一つとされているのだが、この庭園の名前で宿泊施設がある。昭和56年には昭和天皇・皇后両陛下がこの旅館に宿泊されたのだそうだ。
本館は檜皮葺の素晴らしい建築で、調度品も一級品ぞろいである。数百年の歴史を持つからこそ、庭も建物も自然の景色に溶け込んで、凛とした風格を備えたお宿であるが、価格が普通の旅館並みであることはあり難い。

竹林院夕食

歴史を感じさせる施設で、料理もとてもおいしく頂けたし、朝は世界遺産の金峯山寺から読経の太鼓をたたく音がして、小鳥の囀りとともにとても清々しい朝を迎えることが出来た。訪れた日は藤の花が満開だったが、ネットで調べると四季折々の景色が楽しめそうである。

旅行が好きな私の信念であるが、宿泊先は地元の旅館を選び、土産物は地元の店で地元産の物を買う。そうすることで地元が潤い、地域の伝統文化や歴史ある風景を維持することが出来るのだと思う。
以前は割安なバス旅行をよく利用したが、観光地の中心部からずいぶん離れたドライブインで買い物をしたり、都会資本のホテルで宿泊してそのホテルで土産物まで買ってしまったのでは、観光地の伝統や文化を支えてきた地元の人が決して潤わないことに途中で気が付いた。

パック旅行などで地元に富を落さない旅行者が増えるばかりでは、観光地に生まれ育った若い世代が地元に残るはずもなく、それでは観光地の情緒や地元の伝統文化を後世に残すことが難しくなるばかりだ。旅行に携わる多くの企業が自社の利益追求を優先してしまって、以前は存在した観光客が増えれば観光地が豊かになる仕組みを破壊する側になってはいないだろうか。
<つづく>
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