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東大寺大仏のはなし

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Category奈良県
東大寺大仏殿(金堂)の本尊である盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)は、一般に「奈良の大仏」「東大寺大仏」などと親しまれている。

東大寺と郡山城の桜 064

聖武天皇の発願で天平17年(745)に国中連公麻呂らによって大仏の制作が開始され、天平勝宝4年(752)に開眼供養会が行われたのだが、現存する像は中世・近世にかなり補修がなされており、当初の部分は台座、腹、指の一部などが残っているに過ぎないそうだ。「週刊朝日百科:日本の歴史54」には東京芸大グループが調査した大仏の補修個所が修理時期別に色分けされておりわかりやすい。

東大寺大仏の修復状況

では東大寺の大仏はどういう経緯で修理されることになったのか。いろいろ調べると、東大寺大仏が破壊されたのは三度もあるのだ。

江戸時代の明和元年に林自見という人物が『雑説嚢話』という本に、東大寺の大仏の首が3回落ちたということを書いているそうだが、それによると、その時期は
斎衡2年(855)、治承4年(1180)、永禄10年(1567)だそうだが、その時にいったい何があったのか。

最初の斎衡2年は地震が原因らしい。全国で貴賎を問わぬ修復費用の調達が行われて、この時は貞観三年(861)に開眼供養会が行われたようだ。

二度目の治承4年は有名な平重衡による南都焼討である。この時は東大寺だけではなくて、興福寺も焼かれてしまっている。

平治元年(1159)の平治の乱の後、大和国が平清盛の知行国となったが、清盛は南都寺院が保持していた旧来の特権を無視したことに対して南都寺院側は強く反発し、特に東大寺、興福寺は僧兵と呼ばれる武装組織を背景に、強く平氏に反抗していたのだが、治承4年(1180)5月の以仁王の乱を契機に、園城寺や諸国の源氏とも連携し反平氏活動に動き出す。

12月に平重衡(平清盛の五男)が園城寺を攻撃して焼き払い、奈良については当初は平和的解決を目指して清盛はまず使者を送るのだが、南都の僧兵により60人の使者の首が切られてしまう。

激怒した清盛は、南都攻撃を命令しその際に奈良の主要部を巻き込む大火災が発生し、特に東大寺は法華堂と二月堂・転害門・正倉院以外はすべて焼け落ち、興福寺も三基の塔の他、金堂・行動・北円堂・南円堂など38の施設を焼失してしまう。

この時の大仏がどうなったかについては、『平家物語』巻第五「南都炎上」の段には「御頭は焼け落ちて大地にあり、御身は鎔きあいて山の如し」とあり、大仏の頭は下に落ち、体は熱で溶けて山の塊のようになったと書いてある。

東大寺の復興事業は平家政権によって始まり、俊乗坊重源が造営勧進となり大仏は運慶らの制作によりまず大仏が完成し、文治元年(1185)8月28日に後白河法皇を導師として大仏様開眼供養が行われている。壇の浦の戦いは3月なので、平家滅亡の後のことである。

ところが肝心の大仏殿の建築は用材の調達に支障がありなかなか進まず、上棟式が行われたのは建久元年(1190)で大仏殿が完成し落慶供養が行われたのは建久六年(1195)で、その時は後鳥羽上皇や源頼朝が臨席したとの記録が残っている。源頼朝は奈良の復興を鎌倉幕府の最重要の政策とし、巨額の再建資金を支援したそうである。

三度目の永禄10年は、戦国時代の真っただ中の永禄10年(1567)の10月10日で、この時も大仏は火災で鎔けて首が落ちている。

松永久秀と対立していた三好三人衆・筒井順慶が奈良に侵入し東大寺や興福寺に陣を構えたなかで、松永久秀が三好三人衆の本陣のある東大寺大仏殿に夜襲をかけたとされるのだが、この経緯はWikipediaにかなり詳しく書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E5%A4%A7%E4%BB%8F%E6%AE%BF%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

興福寺の塔頭多聞院で文明10年(1478)から元和4年(1618)までの出来事を記録された「多聞院日記」にはこの日のことを、次のように記載されているという。

「今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。言語道断」

しかし、誰が東大寺に火をつけたかについては諸説がある。当時日本で布教していたイエズス会のルイス・フロイスは「日本史」という著書を残しているが、そこにはイエズス会に入信していた三好方の誰かが夜分、本陣のあった東大寺を警護している時にひそかに火をつけたと書いている。

ルイス・フロイスは火をつけた者の名前までは明記していないが、フロイス自身がイエズス会に不利なことを書いていることを何故注目しないのかは良く分からない。ここではその可能性もあるとだけ書いておこう。

とにかくこの兵火のために東大寺は、二月堂・法華堂・南大門・転害門・正倉院などは残ったものの、大伽藍の大半を再び焼失させてしまっている。

元亀元年(1570)、朝廷は京都の阿弥陀寺の青玉上人に、大仏の修復のための諸国勧進を行うべしと命じ、織田信長や武田信玄へも勧進への協力が命じられたようだが、当時はなかなか資金が集まらなかったようである。

天正6年に鋳物師の弥左衛門久重が起用され大仏が修復されたが、頭部は銅板で仮復旧したままの状態だったらしい。大仏殿も仮堂で復興したがそれも慶長15年(1610)に大風で倒壊し、大仏は無残な姿のままで数十年雨ざらし状態だったことになる。

万治3年(1660)東大寺の公慶上人が立ち上がり、奈良の町人に大仏殿再建のための勧進を呼び掛け、江戸をはじめ遠い国からの勧進も盛んになった。

貞享3年(1686)から大仏の本館修復が始まり、元禄5年(1692)には露座の大仏開眼供養が行われ、全国から20万人を超える参詣人が集まったと言われている。下の図は東大寺に残されている「開眼供養屏風」で、露座のままで法要が行われているところが描かれている。

開眼供養屏風

そして大仏殿は宝永6年(1709)に完成し、落慶法要には24万人が詰めかけたというのだが、 三好・松永の戦乱で焼けて以来大仏が修復され、立派な大仏殿の屋根の下に納まるのに142年もかかっているのだ。

東大寺と郡山城の桜 006

今我々が目にすることのできる東大寺の盧舎那仏像は、このようにさまざまな人々の努力により残されてきた貴重な文化財であることを忘れてはならない。この仏像は国宝に指定されているが、ただ古いから国宝であるのではなく、その時代時代の最高の技術で修復されてきたからこそ国宝なのである。

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