世界最大級の墳墓である「仁徳天皇陵」が誰の陵墓か分からなくなった経緯

なかでも「仁徳天皇陵」は墳長486mもあり、エジプトのクフ王のピラミッド、秦の始皇帝陵とともに世界三大墳墓の一つに数えられていると学生時代に学んだ記憶がある。

現地にある「仁徳天皇陵」の説明版によると、「仁徳天皇67年の冬10月5日に、河内の石津原(堺市石津町~中百舌鳥町一帯)に行幸して陵地を定め、同月18日から工事を始めました。」とある。
また「仁徳天皇は、それから20年後の87年の春正月16日になくなり、同年の冬10月7日に百舌鳥野に葬られました。(古事記には毛受[もず]耳原陵と書かれています)」とも書かれている。在位が87年というのは長すぎて違和感を覚えるが、説明版には明確に「仁徳天皇陵」と書かれており、工事の時期から葬儀の時期までこんなに具体的に解説されていると、誰しもここが仁徳天皇の陵墓であると確信してしまう。
しかし、自宅にある市販の「もう一度読む山川日本史」には、この古墳について「大仙陵古墳(伝仁徳陵<堺市>)」と書かれていて、続けてこう解説されている。
「…古墳の築造年代は、その墳丘上に残された円筒埴輪の形式から5世紀半ばから後半と推定されている。ここに、仁徳天皇が4世紀前半に没したと解釈できる『古事記』の記述と比べ、約半世紀のずれが生じている。このような学問上の疑義があることから、今日では学術上には所在地の地名をとって『大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)』などの名称でよばれるようになった。」(p.15-16)
と、仁徳天皇の陵墓であるとはどこにも書かれておらず、今の若い世代はこの古墳を仁徳天皇陵として習っているのではないようだ。
では誰の陵墓なのか気になったので調べてみたのだが、仁徳天皇陵に限らず、埋葬されている人物の名前が良くわかっていない古墳が多いようなのだ。どうして、こんな大きな古墳に埋葬されている天皇が特定できないのだろうか。
その直接的原因は、江戸時代の学者の考証が正確でなかったままに明治時代に受け継がれたこと。さらには天皇陵についての学術的な調査を厳しく制限され、学問的に再検討することが許されないまま今日に至っているということにあるというのだが、今も宮内庁は天皇陵の発掘を許さないために、どの天皇の古墳であるかが特定できる方法がないのだそうだ。
では、逆に、今までこの世界最大級の墳墓を「仁徳天皇陵」と呼んできた根拠は何だったのかということになる。古い書物には何と書かれているのだろうか。
『古事記』の記録では、オオササギ(仁徳天皇)は丁卯の年(ひのとう:西暦427年?)8月15日に83歳で崩御したといい、毛受之耳原(もずのみみはら)に陵墓があるとされる。
『日本書紀』には、仁徳天皇は仁徳天皇87年(西暦399年)1月16日に崩御し、同年10月に百舌鳥野陵(もずののみささぎ)に葬られたとある。
平安時代の法令集である『延喜式』には、仁徳天皇の陵は「百舌鳥耳原中陵」という名前で和泉国大鳥郡にありと記述されている。
また『堺鏡』(1684年(貞享元年))には当古墳が「仁徳天皇陵」であると記されており、江戸時代には既に「仁徳天皇陵」として信じられていたようだ。
「仁徳天皇陵」にある現地の説明版は『日本書紀』に記されていることを根拠にしていることが分かるが、『日本書紀』の記述内容は『古事記』と比べると、崩御された年も季節も年齢も異なり、陵墓の場所の記載についても異なっている。そもそも『日本書紀』に書かれている「在位87年」をそのまま信じるわけにはいかないだろう。
宮内庁のHPによると大阪府堺市百舌鳥近辺には第16代仁徳天皇、第17代履中天皇、第18代反正天皇の3陵が案内されている。
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/map/osaka02.html

しかし実際の地図で見ると、反正天皇陵は天皇陵にしてはいかにも小さく、それよりもかなり大きな「土師ニサンザイ古墳」や「御陵山古墳」が誰の陵墓であるか特定されないままに残されているのを誰しも疑問に思うだろう。「土師ニサンザイ古墳(下画像)」も「御陵山古墳」も「陵墓参考地」として現在宮内庁の管理となっているが、そのことは宮内庁がどの古墳が誰の陵墓であるのかが分かっていないことを正直に吐露しているようなものだ。

では履中天皇陵、反正天皇陵について『古事記』『日本書紀』にはどう書かれているのか。

『古事記』には、履中天皇の「御陵は毛受(もず)に在り」と書かれ、反正天皇については、「御陵は毛受野(もずの)に在りと言へり」と書かれている。
『日本書紀』には、履中天皇について「百舌鳥耳原陵(もずみのはらみさぎ)に葬った」と書かれ、反正天皇については陵墓についての記載がない。在位期間については履中天皇は6年、反正天皇は4年程度でしかなく、仁徳天皇よりもはるかに短い期間である。
また『延喜式』には陵墓のサイズが書かれていて、仁徳天皇陵は「百舌鳥耳原中陵」で「兆域東西八町。南北八町」。その北陵が反正天皇陵で「東西三町。南北二町」、南陵が履中天皇陵で「東西五町。南北五町」と記録されているのだそうだ。
『古事記』における「毛受(もず)」と『日本書紀』における「百舌鳥(もず)」が、いずれも現在の大阪府堺市百舌鳥一帯を意味するとすれば、『記紀』『延喜式』の記述を総合した宮内庁見解も分からないではない。
ではこの宮内庁の見解を否定する説が、何を根拠として出てきたのだろうか。
それは考古学が発達して、出土した円筒埴輪の特徴で古墳の製作年代が概ね把握できるようになったことによるもので、考古学の視点から陵墓の製作年代を調べると、「履中天皇陵」と比定されている「上石津ミサンザイ古墳」が一番古いという事が判明しているそうだ。
履中天皇は仁徳天皇の子供なのだが、子供の古墳の方が親の古墳より古いということはどう考えてもおかしい。
したがって「伝履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)」が真の仁徳天皇陵ではないかという見解もあるのだそうだが、そうすると『延喜式』の陵墓の規模に関する記述と矛盾することになってしまう。
よくよく考えると『古事記』も『日本書紀』も書かれたのは8世紀であり、仁徳天皇の御代からは3世紀も離れていた。この時代から既に、場所の特定ができていなかった可能性が小さくないのだ。『延喜式』になると、完成したのは10世紀にもなるので、ますます記述内容の信憑性が薄れてしまう。この時期の歴史については文献ではわからないために、古墳の発掘調査でもしない限りは特定困難なのだろう。
今でこそ宮内庁管理で陵域内への自由な出入りが禁止されているが、貞享元年(1684)に著された『堺鏡』という本には豊臣秀吉が「仁徳天皇陵」でしばしば猟を行っていたことが記されているそうだ。その後、江戸時代に何度か修復工事などが為されたが、幕末までは後円部墳頂などを除き、古墳に自由に出入りすることが可能であったという。
また明治5年(1872)の前方部斜面の崩壊による埋葬施設が露出したため、堺県令税所(さいしょ)篤等による緊急発掘がなされたそうだが、どのような調査がなされたか細部についてはよくわからない。
アメリカのボストン美術館にどういうわけか、「仁徳天皇陵」から出土したという獣帯鏡、三環鈴、馬鐸、環頭太刀の柄頭(つかがしら)の4点が所蔵されているそうだ。環鈴の形状や環頭太刀の柄頭の形状から類推して、これらの出土品は5世紀後半から6世紀初めのものと考えられているようだが、本当にこれらが「仁徳天皇陵」から発掘されたものであることを裏付ける証拠はないらしい。しかしながら、「もう一度読む山川日本史」の記述ではこの陵の円筒埴輪の形式は「5世紀半ばから後半」と推定していたので、これらの出土品がこの古墳から出てきたとしても矛盾するものではないのである。

昨年の8月に宮内庁書陵部がボストン美術館所蔵の4点について初の公式調査を行い、年代や購入記録から「(大山古墳出土の)可能性は極めて低い」との見解をまとめたことがニュースで流れたのが次のURLで読むことができる。これを読むと、宮内庁は「大山古墳(大仙陵古墳)」が仁徳天皇陵であるというスタンスを変えたくなさそうである。
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/08/13/kiji/K20110813001405690.html
そもそもこの4点をボストン美術館が買ったのは、ボストン美術館中国・日本美術部に迎えられた岡倉天心(1863-1913)が、明治39年(1906)に京都、奈良へ出張した際に一括購入したらしいのだが、宮内庁の発表が正しければ岡倉天心が騙されたことになる。
では岡倉天心は誰から買ったのか。その肝心なところが秘匿されていて、今ではよくわからない。
しかしながら岡倉天心程の人物が、仁徳天皇陵出土品と確信し、購入先を秘匿してまで購入したのはそれなりの根拠があったはずだと考えてしまう。ネットでは、明治時代の堺県令が「仁徳天皇陵」を盗掘し、発掘品を大阪の骨董具屋に売ったと書かれている記事が見つかるが、真偽は定かではない。
日本史において「謎の四世紀」とよく言われる時代から、中国の史書「宋書」に見える「讃・珍・済・興・武」の「倭の五王」の時代の大王達の墳墓がこの百舌鳥・古市古墳群であろうとされている。
ところが、第16代仁徳天皇は倭王「讃」にあたるとする説もあれば、「珍」とする説もある。次の履中天皇を「讃」にあてる説もあるし、先の応神天皇を「讃」とする説もある。現状のところでは「倭の五王」はほとんど特定できておらず、またある説によれば、応神天皇と仁徳天皇は同一人物とも言う。
『古事記』における「毛受」や『日本書紀』における「百舌鳥」が、現在の大阪府堺市百舌鳥一帯を指しているのではないとする研究者もいるようだ。誰の説かはよくわからないが、神戸市の舞子にある五色塚古墳を仁徳天皇陵と考える説があるようだ。
http://blog.goo.ne.jp/tommz_1938/e/a09700ee36365d55fbd307f3f8b18b44
それにしても、こんなに大きな古墳がいくつもあるのに、誰の陵墓なのかがどうして分からないのだろうと誰でも思う。しかし、天皇家に限らず、藤原鎌足にせよ坂上田村麻呂にせよ、多くの歴史上の人物の墓も推定されているに過ぎないのだそうだ。古代人は死んだ人の魂を鎮めるために丁寧に埋葬することはしたが、名前を忘れずに墓を永年にわたり守り続けるという習慣がなかったという説があるが、それが意外と正しいのかもしれない。
しかし、これだけ多くの古墳について宮内庁が発掘を許さないスタンスでは、新たな史実が発見されることは今後ともないだろう。既に過去に於いて何度も盗掘されていたであろう古墳を、いつまでも立ち入り禁止にする理由が私にはよくわからない。個人的な意見ではあるが、宮内庁は被埋葬者を特定することにつながる学術調査に関しては、調査後は現状に復帰することを前提に認めるべきではないかと思う。
一昔前なら、「たかきやにのぼりてみれば煙たつ 民のかまどはにぎはひにけり」(『新古今和歌集』藤原時平の歌)と言えば、仁徳天皇の事だとすぐに分かった。
『古事記』にも『日本書紀』にも、仁徳天皇が食事の支度に忙しいはずの時間に民家の竈から煙が立ち上らないのを見て、三年間課税を止めさせた仁政の故事が記録されている。
『日本書紀』を読むと、仁徳天皇は課税を止めた三年間は「御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、屋根の茅はくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。」(訳:講談社学術文庫『日本書紀 上』p.231)と書かれている。
そして、人々が豊かになってから天皇がこう語ったと記されている。
「天が人君を立てるのは、人民のためである。だから人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだなら自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである。」(同上p.232)
多くの日本人の心の中に、このような政治をおこなうことが「仁政」であるとの考え方がどこかに染みついているように思うのだ。
こんなに景気が悪く、地方が疲弊し若い人が就職活動で困っている時期に、今の内閣は官僚の言いなりになって消費税増税を強引に進めようとしているが、苦しい時に増税をしたり、海外にカネをバラ撒くような政治は日本古来の「仁政」の考え方とは全く異なっている。
『古事記』や『日本書紀』の記述には作り話も多い事だろうが、古代のエリートが、あるべき政治家像をどう考えたかということを知る意味で仁徳天皇の記述部分は興味深いものがある。この仁徳天皇のモデルからあまりにもかけ離れた政治が、長期間にわたって国民の支持が得られるとは到底思えないのだ。
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大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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