明治の皇室と仏教

暗殺されたとの説もある幕末の孝明天皇の御葬儀もここで行われたのだが、孝明天皇の次は明治天皇だ。明治以前は京都に都があって天皇家が仏教徒であったという当たり前のことに気付かされたが、その頃は歴史にそれほど関心がなく、それ以上深くは考えなかった。
昨年あたりから廃仏毀釈の頃に興味を持つようになっていろいろ調べると、明治4年9月24日の「皇霊を宮中に遷祀する詔」により、「上古以来宮中に祀られていた仏堂・仏具・経典等、また天皇・皇后の念持仏など一切を天皇家の菩提寺である泉涌寺に遷し、その代わりとして神棚が宮中に置かれて、宮中より仏教色を一掃しました。」(佐伯恵達「廃仏毀釈百年」p295)とある。
淡々と書かれているが、こんな重要なことが何の抵抗もなくなすことができたということに疑問を感じた。
皇室で仏教は1400年以上の歴史があり、江戸時代までは皇族は仏教徒であり仏教を保護してきたのだ。まして、明治天皇にとっては先代の孝明天皇は実の父親である。若いとはいえ、明治4年と言えば天皇は19歳だ。他にも皇族は沢山いたのに、そんな簡単に信仰が捨てられることに不自然さを感じるのは私だけだろうか。信仰の薄い私ですら、自分の先祖の墓を捨てて明日から神棚を祀れというのは耐えられない。
明治天皇や主要な皇族が抵抗すれば、いかなる策士といえどもこのようなことは強行できなかったと思うのだが、皇族すべてが抵抗せずに廃仏を受容したとすれば、脅迫などがあって皇族の誰もが抵抗できない環境に置かれていたか、主要な皇族全員が神仏分離が正しいとの考え方でほぼ一致していたかのいずれかなのだろうが、真相はどうだったのか。
色々調べていくと、明治天皇暗殺説まである。それくらいの事がなければ、皇族すべてが神仏分離に従うということは起こり得ないようにも思える。

明治天皇の即位の頃の写真が「幕末写真館」というサイトで見つかったが、この写真がもし本物で中心にいるのが明治天皇であれば、我々がよく目にする明治天皇の写真とはあまりにも異なる。
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html

即位前と後では顔も体格も字も教養も運動能力も全く異なるというのが事実であれば、すり替えられたと考えるのが自然である。すり替えで天皇となった人物の名前が南朝の末裔の大室寅之祐ということまでわかっているというのだが、皆さんは次のサイトを読んでどう思われますか。
古川宏という士族の末裔の方が「士族家庭史研究会」というサイトで、明治天皇の出自についてかなり詳しく調べておられる。
http://www8.ocn.ne.jp/~shizoku/meijitennou.htm
あるいは竹下義朗氏の「帝国電網省」の記事もすごく説得力がある。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/honbun/nanboku4.html
現在とは違って当時は天皇の顔を知る者はごく一部であったから、皇族を除いてはすり替えてもわかる人がごく一部しかいなかったことは確実で、こういうことができる条件は十分にあったのである。
さらにいろいろ調べると、皇族の中でも明治政府からの還俗の強要を敢然と拒否した女性がいたことを次のサイトで知ってほっとした。
http://d.hatena.ne.jp/ajita/20090416/p1

「中外日報」という仏教系の新聞に歴史家の石川泰志氏が寄稿したコラムだが、廃仏毀釈の荒波に抗して日本仏教を守り抜いた3人の皇族女性を紹介している。3人とは伏見宮邦家親王の娘で出家していた誓圓尼(浄土宗善光寺大本願住職)、文秀女王(臨済宗妙心寺派円照寺門跡)、日榮尼(日蓮宗村雲瑞龍寺門跡)だが、しばらく記事を引用すると、
「善光寺を善光神社に改めようとする画策に、誓圓尼は「一度仏教に固く誓った身であるから、たとえ如何なる迫害を受けようともこの度の仰せには従い得ない。我が身は終生仏弟子として念仏弘通の為に捧げよう」と決意、善光寺存亡の危機を救った。
文秀女王も実家に連れ戻されたものの、戒律を遵守し仏弟子として振る舞ったため、父邦家親王が不憫に思い円照寺へ戻ることを許した。
日榮尼は明治元年当時まだ十一歳ながら還俗を迫る使者に「日榮は仏道に入りし以上は行雲流水の身となり樹下石上を宿とする共還俗はいたしませぬ」と断言、不惜身命の勇気で廃仏毀釈論者の目論見を一蹴した。
三姉妹の仏法護持の勇気は、皇室の仏教祭祀廃止にもかかわらずなお皇室と仏教の精神的結びつきを維持する上で大きな力となった。」と書かれている。
この時に男性の皇族はすべて還俗したそうだが、この3人の女性が日本の仏教の危機を救ってくれた貢献者であることは間違いがない。
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