東大寺戒壇院と、天平美術の最高傑作である国宝「四天王立像」
東大寺の戒壇院には有名な国宝の「四天王立像」がある。この仏像は今までテレビや写真でしか見たことがなかったのだが、ずっと以前からこの仏像を自分の目で見たいと思っていたので、新薬師寺を見た後に奈良公園を抜けて東大寺戒壇院に向かった。

上の画像が東大寺戒壇院だ。戒壇院は誰でも知っている東大寺大仏殿から300m程度西側にあるのだが、ここに来る観光客はかなり少なかった。
「四天王立像」のことを書く前に、東大寺戒壇院の歴史をパンフレットの記事などを参考にまとめておく。
天平勝宝6年(754)に僧鑑真が来朝し、東大寺大仏殿の前に戒壇を築いて、聖武天皇をはじめ百官公卿四百人に戒を授けた記録があるが、同年五月一日孝謙天皇の戒壇院建立の宣旨により、東大寺戒壇院が造営されたそうだ。創建当初は金堂、講堂などが建てられていて、かなり大きな寺院であったらしい。

その後、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の三度の火災により、創建当初の堂宇をすべて失い、国宝の「四天王立像」が安置されている現在の戒壇堂(上の画像)は享保17年(1732)年に建立されたもので、現在奈良県の重要文化財に指定されている。
ところで、「戒壇」とは受戒の行われるところで、「受戒」とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う厳粛な儀式のことだ。
創建当初の「四天王立像」は銅造のものであったらしいのだが今はなく、今の国宝「四天王立像」は東大寺内の「中門堂」から移されたものと言われているそうだ。その「中門堂」も焼失して今の東大寺にはない建物であり、よくぞこの戒壇堂に天平時代の最高傑作が残されることになったものだと思う。
入堂すると二重の檀があって、参拝者は下の檀に上がってぐるりと一周しながら上檀の四隅に立つ各像と目の前で対面することになる。


東南隅に剣を持つのが持国天、西南隅に槍を携えて立つのが増長天。北西隅に巻物を持つのが広目天、北東隅に宝塔を高く掲げているのが多聞天である。
像の高さは163cmほどの等身の像で、増長天のみが口を開いて忿怒形をしているが、広目天・多聞天・持国天は口を閉じてはいるものの内面に怒りを秘めており、それぞれの表情に深みがあり、写実的で迫力がある。
特に広目天の眉間に皺を寄せ両眼を細めて遠くを凝視する表情や、多聞天の口をへの字に曲げてすぐにでも怒りが爆発しそうな表情が印象に残った。像の足元で脅えている邪鬼の表情もまた面白い。
この天平時代に、人間の内面の怒りや感情をこれほど高度に描写する天才仏師が日本にいたというのが凄い。
この「四天王立像」を制作した仏師はいったい誰なのだろうか。
Wikipediaによる「東大寺」の解説によると、この「四天王立像」は、「法華堂の日光・月光菩薩像とともに、奈良時代の塑像の最高傑作の1つで、国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)の作」と書かれているのだが、この「国中連公麻呂」という人物は何者なのか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA
「続日本紀」の巻第三十三光仁天皇の宝亀五年(774)の記録の中に「国中連公麻呂」が亡くなったことと、その業績などが簡記されている一節がある。しばらく引用してみる。
「冬十月三日、散位・従四位下の国中連公麻呂が卒した。もとは百済の人である。祖父の徳率(百済の官位の第四位)・国骨富は、近江朝廷(天智朝)の癸亥年(663)に本国が滅びる戦乱にあって帰化した。天平年間に、聖武天皇が広大な願いをおこして盧舎那仏(東大寺大仏)の銅像を造ろうとした。その高さは五丈(15m余り)である。当時の鋳造の工人はあえてそれに挑む者はいなかったが、公麻呂は大変優れた技巧と思慮があり、ついにその仕事をなしとげた。その功労によって、最後には四位を授けられ、官も造東大寺次官兼但馬員外介になった。天平宝字二年に、大和国葛下郡国中村に居住していたので、地名に因み「国中」の氏を命じられた。」(「続日本紀(下)現代語訳」講談社学術文庫p133-134)
と、ここには国中連公麻呂が東大寺大仏の鋳造に関わった事だけが書かれている。これだけ大きなプロジェクトに関わった人物が、他にも多くの仏像を造ったことは間違いないのだろうが、「続日本紀」に国中連公麻呂が異例のスピードで昇進した記録と、「寧楽遺文」という書類に東大寺三月堂の不空羂索観音の制作に関わったと思われる記述がある程度らしいのだ。では戒壇堂の四天王寺立像の制作者が国中連公麻呂という説は何を根拠にしているのだろうかというと、それについては過去の記録は何もないようなのだ。
奈良時代の天平期には素晴らしい仏像がいくつもあるが、制作した仏師が記録で判明しているものはわずかしかない。
東北大学名誉教授の田中英道氏はこの時期の仏像を作風や技術、表現力のレベル別に分類されて、以下の仏像はいずれも同一人物の手になるものであり、国中連公麻呂の制作によるものである可能性が高いと結論付けておられる。(「国民の芸術」)
【東大寺大仏殿】盧舎那仏(東大寺大仏)
【東大寺三月堂】不空羂索観音像、日光菩薩像、月光菩薩像、執金剛神像(秘仏)
【東大寺戒壇院】四天王立像
【新薬師寺】十二神将像
【唐招提寺】鑑真和上像
【法隆寺夢殿】行信僧都像

<不空羂索観音像(中央)、日光菩薩像(右)、月光菩薩像(左)>

<執金剛神像>
田中英道氏はこう書いている。(同書p250-251)
「…西洋「中世」美術でさえも、現在では様式に基づいて議論が行われ、出来る限り作者認定の試みが行われている。」
「…日本における奈良時代のこの大芸術家だけが、日本でも世界でも知られていない。作品があれば当然、それを作った作家がいる、という平凡な事実が、わが国ではなぜか無視されている。
わが国では、史料がなければ、作家を認定することが出来ぬという、悲しむべき美術史家の史観におおわれていきた。「様式」観察を基礎とする美術史的な訓練に欠けた考察しかなかったとも言える。作風を検討し、多くの眼が共通性を一致して認める。そこではじめて、作風認定による一人の芸術家が生まれる。それが美術史の基本である。史料はその上に補強材料として組合わせられていくにすぎない。」
さらに田中英道氏は「公麻呂の芸術性はミケランジェロに相当する」と書いておられるが、この評価は人によって異なるだろうし、田中英道氏が掲出した作品がすべて国中連公麻呂の作品だとすれば、ミケランジェロよりも上だと考える人がいてもおかしくない。しかも国中連公麻呂の時代はミケランジェロよりも800年も以前にこれらの仏像を造ったことになる。
私にとっては天平期の仏像の方が深いものを感じるし、少なくとも奈良時代においては、日本の彫刻や造形技術、その芸術性が世界最高レベルにあったことは間違いないのだと思う。
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