奈良西大寺から秋篠寺を訪ねて

東大寺戒壇院の四天王立像を見た後に、近鉄奈良駅から西大寺駅まで乗って、そこから歩いてすぐの「西大寺」に向かった。上の画像は「東門」だ。
西大寺の創建は、奈良時代の天平宝字8年(764)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために七尺の金銅四天王像の造立を発願されたことから始まるのだが、造営当初の境内の広さは東西十一町、南北七町、面積三十一町(約48ヘクタール)と広大で、ここに薬師、弥勒の両金堂をはじめ東西両塔、四王堂院など110以上の堂宇が立ち並び、東の大寺(東大寺)に対する西の大寺に相応しい官大寺だったそうだ。
その後、平安時代に火災や台風で多くの堂塔が失われ衰退したのだが、鎌倉時代に叡尊(えいそん1201~1290)が荒廃していた西大寺の復興に努め、西大寺に現存する仏像、工芸品の多くはこの時期に制作されたものである。
室町時代の文亀2年(1502)の火災で、大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代の再建なのだそうだ。

東門を入って暫らく進むと右手に「四王堂」が建つ。この建物は延宝二年(1674)築で、堂の中には十一面観音立像(重要文化財)と四天王立像(重要文化財)がある。

堂内は撮影禁止なので、ネットで探した画像を貼っておいたが、四天王が足で踏みつけている邪鬼の部分だけが西大寺で唯一残る、奈良時代の制作によるものだそうだ。

西大寺の本堂は江戸時代宝暦二年(1752)の建立で、国の重要文化財に指定されている。

堂内のお勧めは鎌倉時代に制作された文殊菩薩騎獅像(重要文化財)。この像の両脇にある脇侍像のうち右にある善財童子も可愛らしくていい。

上の画像は文亀2年に焼失した東塔の跡で、巨大な基壇や礎石は往時の偉容を偲ばせる。高さは45mあったというからかなり高い塔であったようだ。(現存する近世以前の塔の高さでは東寺54.8m、興福寺50.8mに次ぐ高さ。)
その西側にある愛染堂には有名な愛染明王坐像(重要文化財)があるが、秘仏のため普段は公開されずレプリカが展示されていた。
以前奈良における明治時代の廃仏毀釈の話を何回かに分けて書いた。そのなかで興福寺は僧侶130人が春日大社の神官となり、明治5年には興福寺は廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは興福寺は無住の地であったことを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

その当時の写真を紹介したが、興福寺の貴重な仏像がこんな風に等級をつけて並んでおり、有名な阿修羅像の腕は二本が欠けている。上記の記事を書いた際にこの時期の興福寺の建物や仏像は誰が管理していたのかと疑問に思ったが、最近になって興福寺のホームページに「興福寺は明治8年(1875)から同15年まで、西大寺住職佐伯泓澄によって管理された。」と書いてあることを知った。
http://www.kohfukuji.com/about/history/04.html
西大寺が衰退した平安時代には、西大寺は興福寺の管理下に入っていたのだが、その歴史を踏まえて西大寺は興福寺を荒廃から守ろうと考えたのだろうか。廃仏毀釈の頃は西大寺も多くの収入減を失って苦しかったはずなのだが、詳しいことはよくわからない。
続けて、最後の目的地である「秋篠寺」に向かった。

西大寺から「歴史の道」と名付けられた迷路のような道を歩いていくと15分ほどで秋篠寺の南門に辿り着く。この辺りの鄙びた雰囲気はタイムトリップした気分になる。

南門から木々に囲まれた参道を歩くと境内は苔むして、ひっそりと静寂な空気に包まれて別世界に来たようだ。この苔むした雑木林の中に、かって存在した金堂、東西両塔の跡があり、それぞれの礎石が残されているそうだ。

簡単に秋篠寺のパンフレットなどによりその歴史を振り返ってみる。
秋篠寺は宝亀7年(776)光仁天皇の勅願により、薬師如来を本尊とする寺を造営したのが始まりとするが、天応元年(781)富士山が噴火した年に光仁天皇が崩御されたために、造営は桓武天皇に引き継がれ、完成したのは平安遷都の頃だそうだ。
保延元年(1135)に兵火により金堂、東西の両塔など主要伽藍を焼失し、鎌倉時代以降現本堂の改修や仏像の修理がおこなわれたのだが、明治初期の廃仏毀釈により「諸院諸坊とともに寺域の大半を奪」われてしまったとパンフレットには明記されている。
Wikipediaによると平安時代に大安寺と寺領争いがあった記録が西大寺側に残されていることが書かれているので、以前の境内は相当広かったのだと思う。

境内の雑木林を抜けると国宝の本堂が建つ。この建物は創建当初は講堂として建立されたが、金堂が焼失した後鎌倉時代に大修理を受け、それ以降は本堂と呼ばれてきたそうだ。シンプルではあるが均整のとれた美しい建物である。
この本堂の中に、かって作家・堀辰雄が「東洋のミューズ*」と絶賛した有名な仏像がある。
伎芸天像(ぎげいてんぞう:重要文化財)がその仏像だが、私もそのしなやかな立ち姿にくぎ付けになってしまった。(*ミューズ:ギリシャ神話の女神で音楽・舞踏・学術・文芸などを司る。)

伎芸天は諸技・諸芸の守護神で、秋篠寺のこの仏像はわが国に残る唯一の伎芸天像なのだそうだ。
他にも素晴らしい仏像がいろいろあるのだが、画像はこの伎芸天像だけを紹介しておこう。この仏像を見ている時はずっと、一人の優れた仏師が制作したものとばかり思っていた。 自宅に戻って、パンフレットを読んで驚いた。パンフレットには「頭部乾漆天平時代、体部寄木鎌倉時代、極彩色立像」と書いてある。
秋篠寺の歴史で少し書いたが、保延元年(1135)に兵火により金堂、東西の両塔など主要伽藍が焼失し大切な仏像にも火が付いたのだが、焼けなかった頭部を活かして鎌倉時代に体部を制作しなおしたということなのだ。
心持ち首を左に傾げてわずかに微笑む顔立ちの頭部をそのまま活かして、天衣を羽織ってしなやかに立つ仏像を寄木造りで再現することは相当難易度が高いと思うのだが、秋篠寺の伎芸天像はよくバランスがとれていて全く違和感がなく、むしろ一つの仏像としての芸術性の高さを感じるくらいであった。
パンフレットによると伎芸天像と同様に、帝釈天像(たいしゃくてんぞう:重要文化財)、梵天立像(ぼんてんりゅうぞう:重要文化財)、救脱菩薩像(ぐだつぼさつぞう:重要文化財)という仏像も兵火で体部を破損し鎌倉時代に体部を造りなおしたのだそうだが、梵天立像と救脱菩薩像は奈良国立博物館に寄託されており見ることが出来なかった。
伎芸天像にせよ帝釈天像にせよ、400年以上の時を超えて、先人が作った美しきものの価値を落とすことなく、素晴らしい仏像に再生させた鎌倉時代の仏師たちの芸術的センスと技術力の確かさに驚くばかりである。
朝から白毫寺、新薬師寺、東大寺戒壇院、西大寺、秋篠寺と5つの奈良の古刹を廻って建造物や仏像を見てきたが、日本文化の質的レベルの高さにふれ、これらの文化財を後世に残そうとしてきた人々の思いを感じて有意義な一日であった。
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