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浅野内匠頭が江戸城・松の廊下で刃傷事件を起こした原因は何だったのか~~忠臣蔵1

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Category忠臣蔵
毎年12月になるとよく「忠臣蔵」に関する番組が放映される。
子供のころから何度もよく似たドラマや映画などを見てきたが、これだけ何度も実在した人物の名前で演じられるので、大半が実話なのだろうと長らく思ってきた。

赤穂浪士出陣

Wikipediaによると、『忠臣蔵』とは
「江戸時代中期、元禄14年3月14日(西暦1701年4月21日)、江戸城内の松の廊下にて赤穂藩藩主浅野長矩が、高家肝煎・吉良義央に切りつけた刃傷沙汰に端を発する。松の廊下事件では、加害者とされた浅野は、即刻切腹となり、被害者とされた吉良はおとがめなしとされた。その結果を不服とする家老大石良雄をはじめとする赤穂藩の旧藩士47人(赤穂浪士、いわゆる“赤穂四十七士”)による、元禄15年12月14日(西暦1702年1月30日)の本所・吉良邸への討ち入り及びその後の浪士たちの切腹までを題材にとった物語の総称として使われる。
ただし忠臣蔵は、かなりの演出・創作・脚色が行われており、必ずしも史実の通りではないことも周知とされている。」とある。

物語や映画などにかなりの演出・創作・脚色は付き物だが、ではどこまでが史実でどこまでが作り話なのかという肝心なことが何も書かれていない。

忠臣蔵』のハイライトは言うまでもなく赤穂浪士の討ち入りの場面だが、このきっかけとなったのは江戸城中松の廊下の刃傷事件だ。今回は松の廊下の事件について考えてみたい。

松の廊下

子供の頃から疑問に思っていたのだが、なぜ刃傷事件の被害者である吉良上野介が悪者となるのか。本来は逆で、江戸城中で勅使接待役の浅野内匠頭が本来の業務を捨てて刀を抜き吉良を斬りつけた方がはるかに悪者ではないのか。

刃傷事件の起こった日は、勅使(天皇の使者)が江戸城内に入って将軍と面談し、天皇のお言葉(勅語)を受けた将軍が挨拶を返す(勅語奉答)という最大の儀式が行われる日であり、浅野内匠頭は勅使御馳走役という勅使接待の直接担当者で、接待総責任者の吉良に対して刃傷事件を起こしたということなのだ。
浅野内匠頭はこの重要な儀式をぶち壊してしまったのだが、この時の吉良上野介は全く無抵抗だった。普通に考えれば、悪いのは浅野内匠頭で、吉良はただの被害者だ。

それが、『忠臣蔵』のストーリーでは逆転してしまって、吉良が大悪人になってしまっている。

そもそも『忠臣蔵』は吉良が余程の大悪人でなければ成立しえない物語である。

吉良上野助

ところが、吉良上野介の地元である愛知県吉良町では、今も上野介を名君として称えているのだそうだ。上野介の功績としてあげられるのは、洪水に苦しむ領民のために「黄金堤」を築き、また、新田の開拓に努めた、吉良庄に立ち寄ると赤毛の馬にまたがり領内を巡検し、領民と語らったなどである。実際吉良町には「赤馬」という郷土玩具があるが、これは上野介の馬をモチーフにしたという。
世間の吉良への逆風をものともとせず、今もって名君として慕われているというのだが、どうも『忠臣蔵』とのギャップがありすぎるのだ。

では、当時の記録ではどう書かれているのかを見てみよう。

江戸城中間取り

まず、松の廊下で浅野が吉良に切り付けた時、後ろから浅野を羽交い絞めにして取り押さえた梶川与惣兵衛頼照(かじかわよそべえよりてる)という人物が、この事件の一部始終を書き残している。(『梶川氏筆記』)
この文書を原文とともに現代文に訳して読みやすくしているサイトがあるのはありがたい。
http://chushingura.biz/gisinews02/news042.htm
これによると、

「…内匠殿が参られたので、『私儀、今日、伝奏衆へ御台様よりの御使を勤めるので、諸事よろしくお頼みます』と申しました。
内匠殿は『心得ました』と言って本座(所定の場所)に帰られました。

その後、御白書院(桜間)の方を見ると、吉良殿が御白書院の方よりやって来られました。そこで、坊主に吉良殿を呼び遣わし、吉良殿に『その件について申し伝えるように』と話すと、吉良さんは『承知した』とこちらにやって来たので、私は、大広間に近い方に出て、角柱より6~7間もある所で、吉良さんと出合い、互いに立ったままで、私が『今日、御使の時間が早くなりました』と一言二言言ったところ、誰かが、吉良殿の後ろより『この間の遺恨覚えたるか』と声をかけて切り付けました。その太刀音は、強く聞こえましたが、後で聞くと思ったほどは切れず、浅手だったそうだ。

私たちも驚き、見ると、それは御馳走人の内匠頭殿でした。上野介殿は、『これは』と言って後の方へ振り向かれました所を、また、内匠頭は切り付けたので、上野介は私たちの方へ前に向き直って逃げようとした所を、さらに二太刀ほど切られました。

上野介殿はそのままうつ向きに倒れられました。
吉良殿が倒れたとほんとうにびっくりした状態で、私と内匠頭との間は、二~三足ほどだったので組み付いたように覚えています。その時、私の片手が内匠殿の小刀の鍔にあたったので、それと共に押し付けすくめました。

浅野内匠頭

内匠殿を大広間の後の方へ大勢で取り囲んで連れて行きました。
その時、内匠殿が言われるのは、『上野介の事については、この間からずーっと意趣があったので、殿中と申し、今日の事(勅使・院使の接待)のことに付き、恐れ入るとはいえ、是非に及ばず、討ち果たしたい理由があり』ということを、大広間より柳の間溜御廊下杉戸の外迄の間、何度も何度も繰り返し口にされていました。
刃傷事件のあった後なので、咳き込んで言われるので、ことのほか大声でした。高家衆はじめとり囲んで連れて行く途中、『もはや、事は済んだ。お黙りなされよ。あまり高い声では、如何かと思う』と言われると、その後は言わなくなりました。

この時のことを後に思い出して考えると、内匠殿の心中を察し入る(同情する)。吉良殿を討ち留めされなかったことは、さぞさぞ無念であったろうと思います。誠に思いもかけない急変だったので、前後の深い考えも及ばず、上のような取り扱い(抱き止め)をしたことは是非も(仕方が)ありませんでした。
とは言っても、これらのことは、一己(じぶんだけ)のことで、朋友への義のみです。上へ対してはかのような議論には及ばないのは勿論ですが、老婆心ながらあれこれと思いめぐらすことも多くあります。」

有名な『この間の遺恨覚えたるか』という部分がない写本もあり、この部分は後世に挿入されたという説もあるようだが、この文書のポイントとなるところをまとめると、
浅野内匠頭吉良上野介を斬る直前は、吉良は梶川と話していた。
② 浅野内匠頭は吉良上野介を後ろから斬りかかり、合計で四太刀も浴びせている。その後梶川が止めに入る。
③ 浅野が吉良を斬った理由はずっと恨みに思っていたからというのだが、何があって恨みに思っていたかは具体的には何も書かれていない。
となる。

これが芝居や映画では、多くの作品が
① 吉良が浅野内匠頭を侮辱する。
② 浅野内匠頭が「吉良待て」と声をかけてから正面から吉良に一太刀浴びせ、吉良は額に傷を負う。
③ 逃げる吉良を追って浅野は吉良の肩口に一太刀浴びせる。そこへ梶川が止めに入る。

となっている。

梶川与惣兵衛頼照は大奥御台所付き留守居番であり、現場にいた彼の記述が事実とかけ離れたことを書くことは考えにくいのだが、彼の記述を正しいとすると浅野内匠頭は吉良を不意打ちしている卑怯な男で、しかも四太刀も浴びせながら吉良を仕留めることができなかったのではダメな武将になってしまう。これでは物語にならないことは誰でもわかる。
四十七士の義挙の物語を描く上では、浅野内匠頭が善玉であり吉良上野介が悪玉でなければならないだろう。なぜならば、吉良が善玉であるならば、四十七士が吉良を討ち入りに行くことに「義」がないことになってしまうからだ。

それゆえに芝居や映画では、吉良は悪い男に描かれることになる。
吉良が浅野に対して多額の賄賂を要求したとか、間違ったことを浅野に教えて恥をかかせたとか、当日浅野を大勢の前で罵倒したなど諸説があるが、そのようなことを記録した当時の史料は存在せず、事件の後で創作されたものである。

では浅野内匠頭の家臣は、主君が吉良を斬った理由について心当たりがあったのだろうか。

吉良邸討ち入りに参加した赤穂浪士の手になる文書が今に残されている。

大石内蔵助

大石内蔵助が書いた口上書には、
「去年三月、内匠頭儀、伝奏御馳走の儀につき、意趣を含み罷りあり、殿中に於いて、忍び難き儀ご座候か、刃傷に及び候。…」とあり、主君が吉良を斬りつけた理由については「何か我慢できないところがあったのか」と、家臣ですら肝心なことがよくわかっていないのだ。

『忠臣蔵』のストーリーに影響されてか、浅野は吉良に恨みを持っていたという説が多数説になっている。しかしそれを裏付ける確実な当時の史料は存在せず、浅野内匠頭は何も語らないまま処刑されてしまった。

確かな裏付けがない事から、浅野内匠頭が発狂したとか、精神障害があったという説も結構根強くある。浅野内匠頭自身が当時鬱状態で治療を受けていたことや、内匠頭の母方の叔父にあたる内藤忠勝という人が刃傷沙汰を犯して切腹させられている事実もあり、遺伝的にそのような事件を起こす要素があったという説もはかなり説得力がある。
http://www.geocities.jp/toshio2003jp/tyusin-4.html

しかし、『忠臣蔵』の愛好家には、浅野内匠頭に精神障害があったという説は受け入れがたい事だろう。これでは感激のドラマには到底なりえないからだ。

多くの人が歴史小説や時代劇や映画やドラマを親しみながら知識を蓄積してこられているが、小説等には多かれ少なかれ創作部分が含まれていることに留意すべきである。それがわかっていても、ストーリーの中に実在の人物が出てくると、その多くが史実であるかのように錯覚し、作者の描く人物像に強く影響を受けることは避けられないだろう。

それが国民の常識になっているような歴史上の出来事であっても史実ではないことが少なからずあることをこのブログで何度か書いてきたが、どんな有名な事件であっても多数説を鵜呑みにするのではなく、複数の説を読み比べて自分で考えることが、事実が何かを知る上で重要なのだと思う。

それでも史料がある時代は、議論のできる余地があるからまだ良い。史料のない時代について、実在したとされる人物のドラマを、あたかも真実であるかの如くにドラマ化してテレビに放映されては、多くの国民はそれが真実だと受け取ってしまうだろう。
隣の朝鮮半島に残っている最古の歴史書は『三国史記』で、12世紀(1145年)に書かれたものでしかない。
http://dametv.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-89c6.html


それ以前の時代のドラマはほとんどすべてが想像の産物であるのだが、韓流ドラマを見てこれが史実だと信じて憧れる日本人が多いことは嘆かわしいことである。何らかの韓国の政治的意図があるのだと思うのだが、そのようなドラマを流し続ける日本のテレビ局も困ったものだと思う。
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このブログで書いてきた内容の一部をまとめた著書が2019年4月1日から全国の大手書店やネットで販売されています。

大航海時代にスペインやポルトガルがわが国に接近し、わが国をキリスト教化し植民地化とするための布石を着々と打っていったのですが、わが国はいかにしてその動きを止めたのかについて、戦後のわが国では封印されている事実を掘り起こしていきながら説き明かしていく内容です。最新の書評などについては次の記事をご参照ください。
https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html

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10Comments

大石  

時の将軍は5代綱吉では。柳沢吉保のとき。
このような基本的なことをまちがえては
、言うことが信用できませんね。あなたのほかの説すら信じがたくなる。面白いことを書いていると来て見て読んでいたのですが。
綱吉、柳沢の時代というのはうっかり忘れる、勘違いと言うものではありません。
残念です。
吉良が浅野に立派な塩の作り方を教えろといったが、
浅野は教えなかったので、吉良が嫌がらせをしたと言う
説を読みました。

もちろん吉宗の家来と言うこともありえますが。ほんとうなら
上の意見は無しということです。

2015/12/19 (Sat) 20:08 | EDIT | REPLY |   

しばやん  

Re: タイトルなし

大石さん、ご指摘ありがとうございます。

梶川与惣兵衛は、第4代将軍家綱から8代将軍吉宗まで5代の将軍に仕えた人物です。梶川与惣兵衛を「8代将軍吉宗の家臣」と表現したのは誤りとは言えませんが、この文章の文脈からすれば適切な書き方ではなかったと反省しています。
もちろん第5代綱吉の時代の出来事であることは承知しています。

「大奥御台所付き留守居番」と訂正させていただきます。

2015/12/20 (Sun) 00:13 | EDIT | REPLY |   

-  

韓国映画韓国ドラマ流して何が悪い?
日本のものよりはるかに優れた面白い作品が腐るほどあって視聴率も取れてファンも多いから流してるわけで
韓ドラファンが聞いたら怒るよ?いっぺんきちんと韓国時代劇見てから言ってほしいなー見りゃ凄さがわかるからさ

2018/12/16 (Sun) 17:18 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: タイトルなし

そのような物語の根拠となる当時の書物はどこにも存在せず、時代劇というよりすべてファンタジーです。作り話なら何とでも描くことが出来ます。ファンがいることは史実であることとは無関係です。

反論されたいのなら、当時に記録された史料を探していただき、読者に原文のテキストと和訳を、出典を明らかにしてご教示いただけますか。

2018/12/16 (Sun) 17:50 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

初めまして。

私はこの事件の原因は、当時の軍学者にして政治思想家であった山鹿素行の「山鹿流」の思想があると思います。
山鹿流の尊皇思想こそがこの事件の鍵だと思います。

つまり幕府第一(将軍第一)を是とする吉良と、皇室第一(天皇第一)を是とする浅野との、両者の政治思想の相違が生んだ、思想抗争がこの事件の真相だと思います。
やれ賄賂だの、塩だの、強欲ジジイの嫌がらせだの、事件とは全く無関係なフィクションに過ぎません。


そしてこの事件、真の意味での「悪人」は最初から一人もいませんでした。
まず実際の吉良上野介は、『忠臣蔵』で描かれているような人物像とは真逆ですから。

浅野内匠頭の行為は死罪となって当然であり、両者の「喧嘩」は成立してないので、「喧嘩両成敗にならなかったのはおかしいし不公平だ」なんて全く思いませんが、だからって浅野は悪人だった訳でもありません。

2020/07/11 (Sat) 22:47 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: 初めまして。

ZODIAC12さん、コメントいただきありがとうございます。
この記事は9年前に書いたものですが、今も多くの方に読んで頂いており嬉しい限りです。

ZODIAC12さんの意見はもう少し説明頂かないと、浅野内匠頭が吉良上野介に殺意を覚えた理由がみえてきません。
根拠となるエビデンスもよろしくお願いします。

2020/07/12 (Sun) 10:15 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

それでは・・・・

どうも遅くなりました。


浅野内匠頭長矩はやれ統合失調症だの、精神疾患だのといった説もありますが、どうもそれはろくな根拠がないように感じますね。
要するに犯行動機の合理的な説明が付けられないから、安直にそう結論付けてるだけだと思います。


しかも「浅野は実は暗君、馬鹿殿だった」なる説もありますね。
その説の根拠となったのが、全国各地の藩の大名の人物像や政治状況を記録した『土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)』という書物で、それによると浅野内匠頭長矩が「淫蕩に耽って政務を顧みない」だの、「美女を好み、美女を献上した家臣だけを出世させた」だのと、ケチョンケチョンに扱き下ろしています。

この書物、どうも浅野以外の事でも記述内容が偏っていて、信憑性に疑問符の付く代物だそうですので、とかく史料としてあまり評価は高くないようです。
なのでこの『土芥寇讎記』の記述を鵜呑みには出来ません。何らかの事実を極端に誇張・脚色している可能性が疑われますので。

また赤穂事件の後、「赤穂藩の領民は浅野家によって悪政に苦しんでいたので、浅野家が御家取り潰しになった時、餅を搗いて祝った。」という話もありますが、これも事実なのかどうかもよく分かりません。


そんな中でも私が信用出来そうな事と言えば・・・・・・


◎吉良上野介義央が劇中で描かれているような、欲深で金に汚く、陰険な性格の人物ではなく、史実ではむしろそれとは正反対の清廉な人物像だった事。
そういった人物像は、赤穂事件の後に創られた話ではないかと。



◎吉良義央は浅野長矩以外の大名たちにも様々な嫌がらせを行ったと言われますが、それも生前からの確実な史料かどうかは疑わしく、どうも当人の死後に創作された疑いがあります。


◎吉良義央は三河国幡豆郡【みかわのくにはずぐん:現在の愛知県西尾市】の領主でもあり、そこで善政を布いて領民から名君だと慕われていたとの事です。
しかし当人が実際に自領に足を踏み入れたのは、生涯ただ一度っきりだそうで。
何しろ大名と違って吉良のような旗本は、ほとんどずっと江戸にいて、自分の知行地に直接行く事など滅多になく、通常は代官を派遣して代理統治をさせるものだったみたいですから。



◎浅野内匠頭長矩は数え17歳の時の天和3(1683)年に、同じ勅使饗応役に任命されていて、しかも無事務め上げていました。
つまり殿中での刃傷沙汰を起こした元禄14(1701)年の時は、全くの初めての役目ではなく二度目でした。
刃傷事件を起こした二度目の任命も、既に一度勅使饗応役を経験済みだからという事で、その経験を買われての事ですから。

なので役目に関する事を一から全て吉良に尋ねなければ右も左も分からない、などという事はあり得なかったです。
だから賄賂を出さなかった浅野への腹癒せと当て付けに、正しいノウハウを教えず、デタラメな指示ばかり下して、浅野に恥を掻かせようとしたなんてのは、無理のあるフィクションです。

もしそんな真似をして勅使饗応が不首尾に終わったら、浅野以上に責任者である吉良がタダでは済みません。
「あれは全部浅野のせい」だなんて言い訳は一切通りません。
そんな自分で自分の首を絞めるような馬鹿な真似をする筈がありません。



◎「喧嘩両成敗」の原則が適用されず、吉良だけ何の御咎めもなかったのは不公平な裁定だというのは錯覚でしょう。

何でも当時の江戸城内における法令集である『殿中禁令條目』においては、江戸城内で刀を鯉口三寸切っただけで、誰であろうと事情や経緯を問わず、問答無用で死罪になる事が定められていたそうですから。
ただ残念な事に、そんな条文が本当にあるのか確認してみた所、それらしい原文を見付ける事は出来ませんでしたが。

だとしたらこのような事態に見舞われた場合は、刀身を鞘から抜かず、鞘に納めたまま防御すべきで、吉良はそれをきちんと守っていました。
いや、きちんと防御は出来なかったですけど、少なくとも吉良は鞘から一寸も刀を抜いていません。
故に「喧嘩」自体が最初から成立しておらず、浅野が一方的に傷害罪を起こした訳ですから、「喧嘩両成敗」にならないのは当たり前の話です。
故に浅野一人だけが有罪で即日切腹、吉良が無罪放免との裁定が下されたのも、至極尤もな話です。

しかも将軍綱吉にとって重要な晴れの舞台をぶち壊しにされたのですから、本来なら斬首という不名誉な死に方をさせられる所でした。
それを綱吉の温情で、切腹という大名らしい名誉ある死に方が許されたのですから、むしろその事に感謝すべきであって、文句を言うなどとんでもない話です。



◎この事件を読み解く最も重要な鍵は、やはり山鹿流思想でしょう。
事件の背景には将軍家第一と考え、幕府の威勢の下で皇室や朝廷を圧迫する吉良と、山鹿素行及び山鹿流思想の薫陶を受けた事で、尊皇精神に溢れていて、将軍や幕府よりも天皇・皇室こそ第一と考える浅野との、根本的なイデオロギー対立、政治思想対立がありました。



大体こんな所でしょうか。この事件の真相は昔から様々な説が生まれていますが、やはり今となっては、山鹿素行や山鹿流思想の「や」の字すら出て来ないような説は、根拠薄弱な与太話と切って捨てた方がいいでしょうね。
私はそういう問題の中心軸、最も重要なファクターである山鹿流思想の側面が一切抜けている説は、全てまともに聞く価値がないと思います。

赤穂事件の原因を相も変わらず「吉良の賄賂せびりの嫌がらせ」「性根のねじ曲がった性悪な老人の若者イジメ」だと思い込むのは、完全に的外れだと思います。
それらは『仮名手本忠臣蔵』という虚構の産物に過ぎないと思います。


山鹿素行という学者の提唱した理論である「山鹿流」という学問の流派があって、それは当時の幕府の官学だった朱子学を否定する、反朱子学(つまり反官学)な思想でした。
山鹿素行は『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』という自著の中で、要約すれば、

「我が国は昔から、支那を尊び、支那を中朝(中華)として崇めて来たが、その実態や易姓革命を繰り返して来た歴史を見れば、支那はとても中朝と呼ぶに値しない。
実は万世一系の天皇を戴く本朝(日本)こそが真の中朝だったのだ。」


という、尊皇思想を説いたのです。
ちなみにこの『中朝事実』、幕末の志士たちが熱心に愛読した書物の一つです。
当然皇室(天皇)を幕府(将軍)よりも上位に置いたのですから、幕府から見れば山鹿素行は、幕府支配体制を覆しかねない危険思想の持ち主だった訳です。
それで江戸から追放されてしまいました。

そんな山鹿素行を家老待遇の高禄で召し抱えたのが、浅野内匠頭長矩の祖父・浅野長直です。
それがキッカケで藩主・浅野長矩と、大石内蔵助始め赤穂藩士は、この山鹿素行の講義を受けていたので、いわば山鹿素行の弟子だった訳です。

山鹿流思想を学んだ事で、浅野や赤穂藩士は皇道精神に目覚め、尊皇家となった訳です。
だから赤穂藩浅野家は、水戸徳川家に負けず劣らぬ位の熱心な尊皇派大名だった訳です。


前述の通り、吉良上野介義央という人物は、巷間イメージされるような嫌悪感漂う人物でも、腹黒い悪人でもなかったのですが、だからと言って誰にとっても好感を持てる人物だったかと言うと、そうでもありませんでした。

義央は予てから幕府の意向を受けて、皇室・朝廷に対して様々な政治的圧迫を加えていたので、尊皇家である長矩にしてみれば、不敬極まりない、許し難い相手でした。

勅使饗応の時には、江戸城に勅使が下向した時、皇室(天皇)第一な長矩にしてみれば、将軍といえど天皇の臣下な訳ですから、その天皇の名代である勅使が上座となるのは当然なのに、将軍を上座、勅使を下座に置いたり、その他勅使(ひいては天皇)に対し、不敬(長矩にしてみれば)な振る舞いが重なりました。
そういった要因も相俟って、皇室を蔑ろにするような言動ばかり取る吉良に対し、遂に浅野の堪忍袋の緒が切れて、松の廊下で勅使接待の責任者である吉良に斬り掛かったのです。


この事件直後の京の朝廷での反応ですが、まず時の関白・近衛基熈(このえもとひろ)の日記『基煕公記』には、この事件の報せを聞いた時の東山天皇が、

「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」

という記述があります。
つまり東山天皇は皇室・朝廷にとって不快な事ばかりして来た吉良を日頃から嫌っていたので、「ざまあみろ」とばかりに喜んだという事です。

他には公卿・東園基雅の日記『東園基長卿記』(「基長」は基雅の元の名ですが)には、

「内匠頭乱心これより相極り、その夜切腹といい、これより一家滅亡といい、とても不憫である。
所存が達せられず、かつ、家中以下は流浪とこれ至り、不憫なり。」


といった、浅野や赤穂藩士たちに対して同情を綴った内容を書きました。

その基雅の父・東園基量の『基量卿記』も同様に、

「武江城(江戸城)に於いて浅野内匠頭が吉良上野介を刃傷したが、然れども吉良は死門に赴かず、浅野内匠乱気による沙汰と有り、夜に入りて切腹といいつけられ、一家は滅亡という。存念が達せられず、とても不憫である。」

と、同様に同情を綴った記述をしました。

このように皇室・朝廷は幕府に含む所が色々あったので、尊皇心の強い浅野はいわば「同志」であり、幕府にとってはともかく、皇室・朝廷にとって、浅野の刃傷沙汰は「義挙」だった訳です。


浅野が真相、すなわち刃傷に及んだ本当の動機を語れば、皇室・朝廷に迷惑が掛かってしまう為、それを避ける為に浅野は、詳細を一切語らず、切腹してあの世まで秘密を持って行った訳です。

けれど赤穂藩士たちは山鹿流の尊皇思想を君臣共に共有していたので、浅野の刃傷沙汰の真の動機を理解していましたし、同じ尊皇精神からも亡君の遺志を継がねばならないと思っていました。
だからこそ例え成功した所で、御家再興や自分たちの立身出世が叶う訳でもない、いわば何の得にもならない討ち入りに参加したのです。

だからと言って上でも言いましたように、客観的に見れば吉良が悪人だった訳ではなく、単に純粋に幕府の方針と己の職務に忠実なだけであった吉良にしてみれば、殺される筋合いなど何もなく、さぞ理不尽だった事でしょうけど。


TV時代劇では最後の吉良邸討ち入りのシーンで、大石内蔵助が山鹿流の陣太鼓を鳴らすのは、原作の『仮名手本忠臣蔵』にはない演出です。
まあ原作は時代も南北朝時代と全く違う時代だし、登場人物も事件関係者たちの実名ではなく、南北朝時代に存在した人物たちを使ってますから、山鹿流なんてものを登場させられる訳もないんですけど。

恐らくですが、その演出をする事で、「この仇討ちの背景には、山鹿流の思想がそもそもの動機となっている。」という事を暗示させているのではないでしょうか?


以上の事からこの事件の本質は、「皇室第一(長矩)か?それとも幕府第一(義央)か?」という政治イデオロギーを根底に据えた、皇室・朝廷(長矩)と幕府(義央)の代理抗争、思想抗争だったのです。

2020/07/15 (Wed) 23:04 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: それでは・・・・

浅野内匠頭が吉良に斬り込んだ動機については、記録が無いので推測するしかないのですが、「山鹿流の思想」が原因だと断言されるのには、わたしにはピンときません。殺意を覚えるというのはよほどのことなのですが、吉良の言動がそれほどのものであったのでしょうか。
「皇室を蔑ろにするような言動ばかり取る吉良に対し、遂に浅野の堪忍袋の緒が切れて」と書いておられますが、『梶川氏筆記』では、浅野内匠頭は当日は吉良と会話も交わさずにいきなり吉良に斬り込んだとことが書かれていますね。

浅野内匠頭に精神疾患があったとする説の論拠に、Wikipediaには延宝8年(1680年)6月26日に、第4代将軍・徳川家綱葬儀中の増上寺において、長矩の母方の叔父・内藤忠勝も永井尚長に対して刃傷に及んで、切腹および改易となっていることが紹介されています。「精神疾患」とは言えないレベルであったとしても、母方の遺伝で「キレやすい」タイプであったと考えることは、それなりに説得力があります。

2020/07/16 (Thu) 13:33 | EDIT | REPLY |   

ZODIAC12  

それでも・・・・🤔🤔🤔

寧ろ私には浅野狂人説の方こそ、説得力が弱いと思いますが。
松の廊下よりも先に起こった、内藤忠勝による永井尚長刺殺事件は知ってますが、たまたま血縁者に同じような事をやらかした叔父貴がいたからと言って、それで「浅野も狂人のDNAが発症した」と言うのは、可能性があるにしてもイマイチ決め手に欠けると思います。

そりゃ確かに、「いくら何でも、せめて斬り掛かるタイミングと場所くらいきちんと選べ」と言いたくなる位の、よりにもよってそういう行為が絶対に許されない、最悪のタイミングと場所でやらかしてしまいましたが・・・・


>>>殺意を覚えるというのはよほどのことなのですが、吉良の言動がそれほどのものであったのでしょうか。<<<

>>>『梶川氏筆記』では、浅野内匠頭は当日は吉良と会話も交わさずにいきなり吉良に斬り込んだとことが書かれていますね。<<<


劇中の「この間の遺恨、覚えたるか!」という台詞はさすがに創作だろうと思いますが、それはさておき、浅野長矩にとってはきっと「それ程の事」だったのでしょう。

浅野は元々激情的で、直情径行な気質が強かったのかも知れませんが、だからと言って、即精神障害だと断定するのは如何なものでしょうか?
そんな性向を差し引いたとしても、やはり現代人の感覚や価値観のみで推し量るべきではないと思います。

「吉良の言動がそれほどのものであっただろうか?」という疑問は、現代的な感覚に基くものではないでしょうか。
当時の人間の思考や価値観は現代人とは異なるのですから、現代的感覚のみで論じるべきではないと思います。

17歳の時の一度目の勅使饗応の役目の時は、初体験でまだ右も左も分からなかった「小僧」だった事もあってやむなく吉良に渋々従ったのでしょうが、二度目ともなると既に壮年(当時の基準では)となっていたので、相変わらず皇室に対する姿勢が何も変わってないのを見て、さすがに我慢の限界に達したのでしょう。
なので松の廊下での刃傷行為は、吉良だけでなく、皇室に対して不敬な幕府や将軍に対する、一種の抗議行動でもあった訳です。

しかし露骨にそんな本音を口に出せば、それこそ皇室・朝廷が幕府から更なる圧迫を強められる絶好のキッカケとなってしまいます。
だからこそあくまでも本音を語らず、表向きはあくまでも吉良に対する遺恨が動機という事にし、「皇室に対する態度を改めろ」という主張を込めた無言の抗議活動、当て付けをしたのです。


それに浅野長矩が本当に、単なる一時的な激情や短慮で暴発しただけだと言うのなら、何故浪士となった四十七人もの元藩士たちが、成功する保証もない討ち入りに命懸けで参加したのか、その説明が付かなくなります。

この四十七士は即日処刑されて当然な、言語道断で論外な振る舞いをした馬鹿殿の為に、逆恨みをして、自分の命を捨ててまで、成功するかどうかも定かでない、筋違いな復讐を強行したと言うのでしょうか?
仮に結果的に討ち入りが成功しても、あれだけの事をした以上、御家再興などはまず叶わぬ望みです。
四十七士とはそんな盲目的な忠義に酔い痴れるような、道理に暗い愚か者の集まりだったのでしょうか?それを考えると不自然に思えます。

もし浅野が本当に、そのような殉死するに値しない暗君だったとしたら、わざわざそこまでする事もなく、どこか別の家中に新しく仕官するなりの再就職活動や、武士以外の生き方をするなりの転身を図ったりするものだと思いますが。
それに江戸期は大名家の改易や取り潰しが結構ありましたが、職を失った元家臣たちがここまでした家中は他になかったですし。

刃傷沙汰と討ち入りの動機が、山鹿流思想に基づくものではないとしたら、何故そこまでの忠義立てをしたのでしょうか?
単なる主君の精神錯乱と、吉良への怨恨だけでは、到底納得の行く説明が付きません。
人は誰もが単純な利害損得や、合理的な動機だけで動く訳ではありませんから。


そして話は変わりますが、「浅野と吉良、どっちが悪いか?」といった議論はナンセンスもいい所だと思います。

「浅野が悪い!」「いいや!吉良こそ悪い!」「いやいや・・・やはり浅野こそ・・・」といった類の、どっちか一方を善玉・悪玉に仕立てるような、善悪二元論的、悪者探し的な議論は、ただただ不毛なだけです。
最初から単純な善悪ありきで議論を進めています。

上でも言いましたようにこの事件、真の意味での悪人や黒幕など、最初から一人もいなかったのですから。
ただ御互いの正しいと信じる事柄が大きく食い違っていた事から生じた、不幸な出来事だったのです。

2020/07/16 (Thu) 20:25 | EDIT | REPLY |   
しばやん

しばやん  

Re: それでも・・・・🤔🤔🤔

私は「即精神障害だと断定」しているつもりはありません。「元々激情的で、直情径行な気質が強かった」点も遺伝的資質のひとつとして説明することに説得力があると考えています。

ZODIAC12さんの説に説得力を感じないのは、浅野内匠頭は吉良が来て話もせずに斬りつけているのに、「相変わらず皇室に対する姿勢が何も変わってないのを見て、さすがに我慢の限界に達した」と記述しておられる点です。『梶川氏筆記』では、議論もせずにいきなり斬り込んだのに、そういう結論を出されてもほとんどの人は納得できないのではないでしょうか。そう結論付けるためには、その日に浅野内匠頭が「我慢の限界に達した」ことを裏付ける史料が必要です。それが存在しないので、「遺恨説」や「精神障害説」が出てくるのです。

ZODIAC12 さんの解釈もひとつの見方としては理解しますが、何が正しいかを判断するのは読者の方の判断に委ねるしかないですね。

ZODIAC12 さんがほかに書いておられることは、このシリーズの他の4本の記事で私の見方を書いていますので良かったら覗いて見て下さい。

2020/07/17 (Fri) 00:45 | EDIT | REPLY |   

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