赤穂浪士の討入りの後、吉良上野介の跡継ぎの義周はどうなったのか~~忠臣蔵5
赤穂浪士四十七人が吉良屋敷に討ち入りをし、主君であった浅野内匠頭に代わって吉良上野介を討ち果たしたのだが、この時吉良の家臣たちはどう戦ったのだろう。

『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm
それによると、
「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」
「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜左兵衛の側に寝ていた中小姓一人、徒士の者三人が行方不明となっている。これは逃亡したとみられるから、結局吉良屋敷の内にいた者は一五○人」と書いているそうだ。
屋敷の中にいたのは150人で死傷を免れたのが101人というのだが、この中には女子供もいた数字で、内訳はよくわからない。死傷者の多くが寝起きを襲われたというのは吉良側はほとんど警戒をしていなかったということを意味する。武装した赤穂浪士は全員無事で、吉良側は一方的にやられまくったということだ。
吉良側では赤穂浪士の討入りがある可能性を日々注意はしていたのだろうが、情報入手ができていなかったようである。一方大石内蔵助には吉良家の情報がかなり詳しくわかっていた。

『忠臣蔵新聞第195号』に寺井玄渓宛て大石内蔵助の12月14日付け書状が紹介されている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news195.htm
「茶会の日もこれで決まった。12月5日に茶会があるというので討入りを考えていましたが、将軍が柳沢吉保殿屋敷をお成りと聞き、延期していました。14日に茶会があるというので、討入りをすることに決定しました」(「会日ヲも自然と承候、先日(5日)これ在り候へ共 御成日故遠慮致し、今日(14日)これ在るに付き明日打込申事ニ候」
将軍の御成り日まで把握していたというのは、赤穂浪士は幕府筋の情報ルートを持っていたという事になる。
吉良側にとってみればいつ来るかわからないものを、毎日受け身で待ち続けるのではいくらなんでも体が持たない。少なくとも武器は寝室の近くに置いて、異変を察知すれば直ちに動ける程度の準備は常々していたことだろう。
当時の江戸には町ごとに設置された「木戸」と呼ばれる仕切りがあり、夜10時以降の通行を制限するために木戸が閉められて、通行するためには木戸番に理由を告げて脇の潜り戸を通してもらう必要があったはずだ。そこでもし異変があれば木戸番や吉良邸の辻番が吉良邸に何らかの合図をしてもおかしくないところなのだが、この辻番や木戸番と赤穂浪士はトラブルなく通過したのか、特に記録が残されていないようなのだ。
脅されて黙って赤穂浪士を通したのかもしれないが、そのために異変を知ることが遅れてしまえば、守る側の吉良側は圧倒的に不利になることは言うまでもない。
ではこの赤穂浪士の討入りを、吉良側ではどう見ていたのか。
吉良上野介の孫で、養子の嫡子で17歳の吉良義周(よしちか)は、討ち入り後の15日に、幕府の検使にこの日の出来事について口上書を差し出している。
次のURLに口上書の原文とともに現代語訳が紹介されている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news233.htm

「昨日14日午前3時過ぎ、父の上野介や私がいる所へ、浅野内匠頭の家来と名乗り、大勢が火事装束の様に見えたのが、押し込んできました。表長屋の方は、2ヶ所に梯子をかけ、裏門は打ち破って、大勢が乱入してきました。その上、弓矢や槍、長刀などを持参しており、あちこちより切り込んできました。
家来たちが防いだが、彼らは兵具に身を固めてやってきたので、こちらの家来は死んだり、負傷をしたものがたくさん出ました。乱入してきた者には、負傷させたが討ち取ったものはいません。
私たちの屋敷に切り込んだので、当番の家来で近くに寝ていたものは、これを防ぎ、私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。しばらくして、気がついたので、父のことが急に心配しになりました。今へ行って見ると、最早父は討たれていました。その後は、狼藉を働いた赤穂浪士は引揚げ、居りませんでした」
と、まるで防戦一方で、『米沢塩井家覚書』によると、「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候」とあり、眉間の刀傷は深く、長さが15cm程であばら骨が1本斬られてかちりと音がしたと書かれている。
武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という条文がある。赤穂浪士の討入りは明らかに武家諸法度に違反する行為であったし、夜中に人家に忍び込む行為は武士道にも反する行為でもあった。
討入りの日に吉良家に幕府検使目付として派遣された安部式部信旨と杉田五左衛門勝行は、報告書を幕府に提出している。その報告書をうけ、老中一同は、赤穂の牢人たちの所業は「まさに夜盗の仕業である」といった感想を吉良家に伝えたというのだが、五代将軍・徳川綱吉が赤穂浪士の討入りを賞賛したために途中で結論が変わったようなのである。
討ち入りの日からまだ日も浅い元禄15年(1702)12月23日に老中列座のもと幕府・評定所の寄合が開かれ、その内容をつたえる「存寄書(ぞんじよりがき)」(意見書)では、赤穂浪士たちの夜討ちを賞賛し、読みようによっては赤穂浪士を助命したいともとれる内容が書かれている。
吉良家に関わる部分を要約すると次のようなものである。
① 吉良左兵衛義周は「武道不覚悟」で申し訳が立たない。自決すべきなのにそれもできなかったのだから、切腹を申し付けるべきである。
② 吉良家の家来で手合わせをしなかったもののうち、侍身分のものは斬罪に処されるべきである。多少とも働き手傷を負ったものは親類へのお預けに処されるべきである。 ③ 小者・中間は追放に処すのが妥当である。
④ 赤穂の牢人たちが泉岳寺に引き上げるのを傍観した(吉良家の縁家である)上杉家は改易・断絶に処してもかまわない。
⑤ 赤穂の牢人たちについては、武家諸法度の第一条までもちだし真実の忠義であると述べ、四大名家に預けたまま裁定はあとでもよい。
評定所は徳川幕府の最高裁判所のようなもので、その主体である寺社奉行、勘定奉行と町奉行の評定所一座に大目付・目付で構成される。また「存寄書」というものはあくまでも評定所の意見であって幕府の最終決定でもないが、幕府の中枢の考えが反映されてそれなりの影響力がある書類である。
赤穂浪士と吉良家の処分についてその後幕府内部で意見が割れて、綱吉の裁定に日時を要したことはこれまでの記事に書いたので繰り返さない。
赤穂浪士の処分が決まった同じ日(2月4日)に吉良義周は江戸幕府の評定所に呼び出され、義周の討入り当日の際の「仕形不届」(武道不覚悟)を問われ、家名断絶・領地没収を言い渡された。
この処分に納得できなかった義周はその後自ら評定所に足を運んだものの、幕府は「こうしなければ世論が納得しない」といって取り合わなかったそうだ。
そして元禄16年(1703)2月11日、吉良義周は罪人として諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は2名のみで、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだったという。

諏訪藩に到着すると信州高島藩三万石の居城、高島城南之丸の諏訪湖のほとりにある一室に幽閉されたのが、ここでの生活は過酷を極め、寒さの厳しい真冬でも木綿布子1枚で火鉢などで暖をとることもできず、また自殺防止のために脇差や扇子、楊枝、鼻紙などを身に着けることもできなかったという。
さらに幽閉中に悲しい知らせが相次いだ。
宝永元年(1704)6月2日には実父上杉綱憲が享年42歳で死去。同じ年の8月8日に養母(祖母)梅嶺院が享年61歳で死去と、度重なる身内の訃報に義周はかなりショックを受けただろう。
このような厳しい環境での生活のために、義周はたびたび体調を崩し衰弱していく。
幽閉から3年ほどたった宝永2年(1705)10月頃から発熱や悪寒といった症状が出て完全に寝たきりとなり、翌年の1月20日に21歳の生涯を終えたという。
今まで何度か書いてきたが、普通に考えれば浅野内匠頭が殿中で吉良上野介を斬りつけたのであって、吉良上野介は単なる被害者だ。浅野内匠頭は即日切腹となったが、それは幕府が命じたことであり、赤穂藩が仇討ちをするとすれば相手は幕府でなければ筋が通らない。
しかし赤穂浪士が命を奪ったのは松の廊下刃傷事件の被害者である吉良上野介で、この被害者の命を奪う行為は「仇討」と呼ぶべきものではなく、亡君の遺志を完結させて霊を慰める儀式のようなものである。義周にまで罪が問われる理由がどこにあろうか。
夜討ちで吉良邸に侵入してきた赤穂浪士に寝起きで防戦した吉良家からすればこの処分は到底納得できるものではなかっただろう。
無能な幕府の犠牲になった吉良義周のその後の運命は、まことに哀れとしか言いようがない。

長野県諏訪市の法華寺に吉良義周の墓がある。そこに次のような熱い解説が記されている。
「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」

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『忠臣蔵新聞第234号』に、赤穂市発行の『忠臣蔵第一巻(概説編)』にまとめられた吉良家側の死傷者の数がでている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news234.htm
それによると、
「本屋内での死者二人、負傷者二人、本屋外での死者・負傷者は六人と一七人、合わせて死者は一七人、負傷者は二八人、合計四五人であった。死者の過半は瀕死の重傷をうけ一五日中に死亡した者、負傷者は寝ていて起き上がったところで切られた者がほとんどである」
「長屋に閉じ込められ外へ出られなかった者は用人一人、中間頭一人、徒士の者五人、足軽七人、中間八六人であり、抵抗しなかった裏門番一人と合わせて一○一人が死傷をまぬかれた。それに、この夜左兵衛の側に寝ていた中小姓一人、徒士の者三人が行方不明となっている。これは逃亡したとみられるから、結局吉良屋敷の内にいた者は一五○人」と書いているそうだ。
屋敷の中にいたのは150人で死傷を免れたのが101人というのだが、この中には女子供もいた数字で、内訳はよくわからない。死傷者の多くが寝起きを襲われたというのは吉良側はほとんど警戒をしていなかったということを意味する。武装した赤穂浪士は全員無事で、吉良側は一方的にやられまくったということだ。
吉良側では赤穂浪士の討入りがある可能性を日々注意はしていたのだろうが、情報入手ができていなかったようである。一方大石内蔵助には吉良家の情報がかなり詳しくわかっていた。

『忠臣蔵新聞第195号』に寺井玄渓宛て大石内蔵助の12月14日付け書状が紹介されている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news195.htm
「茶会の日もこれで決まった。12月5日に茶会があるというので討入りを考えていましたが、将軍が柳沢吉保殿屋敷をお成りと聞き、延期していました。14日に茶会があるというので、討入りをすることに決定しました」(「会日ヲも自然と承候、先日(5日)これ在り候へ共 御成日故遠慮致し、今日(14日)これ在るに付き明日打込申事ニ候」
将軍の御成り日まで把握していたというのは、赤穂浪士は幕府筋の情報ルートを持っていたという事になる。
吉良側にとってみればいつ来るかわからないものを、毎日受け身で待ち続けるのではいくらなんでも体が持たない。少なくとも武器は寝室の近くに置いて、異変を察知すれば直ちに動ける程度の準備は常々していたことだろう。
当時の江戸には町ごとに設置された「木戸」と呼ばれる仕切りがあり、夜10時以降の通行を制限するために木戸が閉められて、通行するためには木戸番に理由を告げて脇の潜り戸を通してもらう必要があったはずだ。そこでもし異変があれば木戸番や吉良邸の辻番が吉良邸に何らかの合図をしてもおかしくないところなのだが、この辻番や木戸番と赤穂浪士はトラブルなく通過したのか、特に記録が残されていないようなのだ。
脅されて黙って赤穂浪士を通したのかもしれないが、そのために異変を知ることが遅れてしまえば、守る側の吉良側は圧倒的に不利になることは言うまでもない。
ではこの赤穂浪士の討入りを、吉良側ではどう見ていたのか。
吉良上野介の孫で、養子の嫡子で17歳の吉良義周(よしちか)は、討ち入り後の15日に、幕府の検使にこの日の出来事について口上書を差し出している。
次のURLに口上書の原文とともに現代語訳が紹介されている。
http://chushingura.biz/gisinews07/news233.htm

「昨日14日午前3時過ぎ、父の上野介や私がいる所へ、浅野内匠頭の家来と名乗り、大勢が火事装束の様に見えたのが、押し込んできました。表長屋の方は、2ヶ所に梯子をかけ、裏門は打ち破って、大勢が乱入してきました。その上、弓矢や槍、長刀などを持参しており、あちこちより切り込んできました。
家来たちが防いだが、彼らは兵具に身を固めてやってきたので、こちらの家来は死んだり、負傷をしたものがたくさん出ました。乱入してきた者には、負傷させたが討ち取ったものはいません。
私たちの屋敷に切り込んだので、当番の家来で近くに寝ていたものは、これを防ぎ、私も長刀で防戦しましたが、2箇所に負傷し、目に血が入って気を失いました。しばらくして、気がついたので、父のことが急に心配しになりました。今へ行って見ると、最早父は討たれていました。その後は、狼藉を働いた赤穂浪士は引揚げ、居りませんでした」
と、まるで防戦一方で、『米沢塩井家覚書』によると、「御疵も御眉間に少々、御右の御肩下御疵の長さ四五寸ほど、底之はよほど入申候、御あはら骨一本を切り申し、其の砌御身動之の節、かちり々と音の仕る程の事に候」とあり、眉間の刀傷は深く、長さが15cm程であばら骨が1本斬られてかちりと音がしたと書かれている。
武家諸法度には「徒党を組み誓約をなす事を禁ず」という条文がある。赤穂浪士の討入りは明らかに武家諸法度に違反する行為であったし、夜中に人家に忍び込む行為は武士道にも反する行為でもあった。
討入りの日に吉良家に幕府検使目付として派遣された安部式部信旨と杉田五左衛門勝行は、報告書を幕府に提出している。その報告書をうけ、老中一同は、赤穂の牢人たちの所業は「まさに夜盗の仕業である」といった感想を吉良家に伝えたというのだが、五代将軍・徳川綱吉が赤穂浪士の討入りを賞賛したために途中で結論が変わったようなのである。
討ち入りの日からまだ日も浅い元禄15年(1702)12月23日に老中列座のもと幕府・評定所の寄合が開かれ、その内容をつたえる「存寄書(ぞんじよりがき)」(意見書)では、赤穂浪士たちの夜討ちを賞賛し、読みようによっては赤穂浪士を助命したいともとれる内容が書かれている。
吉良家に関わる部分を要約すると次のようなものである。
① 吉良左兵衛義周は「武道不覚悟」で申し訳が立たない。自決すべきなのにそれもできなかったのだから、切腹を申し付けるべきである。
② 吉良家の家来で手合わせをしなかったもののうち、侍身分のものは斬罪に処されるべきである。多少とも働き手傷を負ったものは親類へのお預けに処されるべきである。 ③ 小者・中間は追放に処すのが妥当である。
④ 赤穂の牢人たちが泉岳寺に引き上げるのを傍観した(吉良家の縁家である)上杉家は改易・断絶に処してもかまわない。
⑤ 赤穂の牢人たちについては、武家諸法度の第一条までもちだし真実の忠義であると述べ、四大名家に預けたまま裁定はあとでもよい。
評定所は徳川幕府の最高裁判所のようなもので、その主体である寺社奉行、勘定奉行と町奉行の評定所一座に大目付・目付で構成される。また「存寄書」というものはあくまでも評定所の意見であって幕府の最終決定でもないが、幕府の中枢の考えが反映されてそれなりの影響力がある書類である。
赤穂浪士と吉良家の処分についてその後幕府内部で意見が割れて、綱吉の裁定に日時を要したことはこれまでの記事に書いたので繰り返さない。
赤穂浪士の処分が決まった同じ日(2月4日)に吉良義周は江戸幕府の評定所に呼び出され、義周の討入り当日の際の「仕形不届」(武道不覚悟)を問われ、家名断絶・領地没収を言い渡された。
この処分に納得できなかった義周はその後自ら評定所に足を運んだものの、幕府は「こうしなければ世論が納得しない」といって取り合わなかったそうだ。
そして元禄16年(1703)2月11日、吉良義周は罪人として諏訪藩士130名に護送されて江戸を出発するが、随行の家臣は2名のみで、また荷物も長持3棹とつづら1個だけだったという。

諏訪藩に到着すると信州高島藩三万石の居城、高島城南之丸の諏訪湖のほとりにある一室に幽閉されたのが、ここでの生活は過酷を極め、寒さの厳しい真冬でも木綿布子1枚で火鉢などで暖をとることもできず、また自殺防止のために脇差や扇子、楊枝、鼻紙などを身に着けることもできなかったという。
さらに幽閉中に悲しい知らせが相次いだ。
宝永元年(1704)6月2日には実父上杉綱憲が享年42歳で死去。同じ年の8月8日に養母(祖母)梅嶺院が享年61歳で死去と、度重なる身内の訃報に義周はかなりショックを受けただろう。
このような厳しい環境での生活のために、義周はたびたび体調を崩し衰弱していく。
幽閉から3年ほどたった宝永2年(1705)10月頃から発熱や悪寒といった症状が出て完全に寝たきりとなり、翌年の1月20日に21歳の生涯を終えたという。
今まで何度か書いてきたが、普通に考えれば浅野内匠頭が殿中で吉良上野介を斬りつけたのであって、吉良上野介は単なる被害者だ。浅野内匠頭は即日切腹となったが、それは幕府が命じたことであり、赤穂藩が仇討ちをするとすれば相手は幕府でなければ筋が通らない。
しかし赤穂浪士が命を奪ったのは松の廊下刃傷事件の被害者である吉良上野介で、この被害者の命を奪う行為は「仇討」と呼ぶべきものではなく、亡君の遺志を完結させて霊を慰める儀式のようなものである。義周にまで罪が問われる理由がどこにあろうか。
夜討ちで吉良邸に侵入してきた赤穂浪士に寝起きで防戦した吉良家からすればこの処分は到底納得できるものではなかっただろう。
無能な幕府の犠牲になった吉良義周のその後の運命は、まことに哀れとしか言いようがない。

長野県諏訪市の法華寺に吉良義周の墓がある。そこに次のような熱い解説が記されている。
「義周公未だ赦されず、ひとり寂しくここに眠る。…世論に圧されて、いわれなき無念の罪を背負い、配流された先でつぎつぎに肉親の死を知り、悶々のうちに若き命を終えた。公よ、あなたは元禄事件最大の被害者であった。」

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