GHQが日本人に封印した歴史を読む~~ペリー来航
Category18世紀から幕末期の欧米列強
嘉永6年(1853)6月に、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの率いる4隻の軍艦が、江戸湾入口の浦賀の沖に姿を現した。
ペリーは何のためにわが国に来たのか。市販されている高校教科書『もう一度読む山川日本史』にはこう書かれている。

「そのころアメリカは、北太平洋での捕鯨や太平洋を横断して中国にいたる新しい貿易ルートを開拓するために、日本の港で食料や燃料を補給する必要を感じていた。このため上陸したペリーは、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。」(『もう一度読む山川日本史』p.209)
と、まるで野心のかけらもないような書き方になっている。これでは江戸幕府がなぜあれだけ抵抗したかが見えてこないし、なぜペリーがかくも強硬であったかという事がわかるとは思えない。その魂胆がどこにあったかという肝心な点については教科書には何も書かれていないのと同じだ。
前回の記事で紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に『ペルリ提督日本遠征記』の重要な部分が引用されている。

「…若し日本政府が本島内にかかる[捕鯨船の避難・給水用の]港を許與することを拒否せば、且若し軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能はざりせば、吾が艦隊は、先づ最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料とを獲るに便利なる所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を待遇し、彼等と友好を結ぶやう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に當然ならん。(中略)
…大英国はすでに東印度及び支那の諸海灣に於て、最も重要なる地點を占有し居れり。殊に支那の海灣に於て然り。
彼等はシンガポールをもつて西南の門戸を、他方香港によつて東北の門戸を制扼[制圧]し、…海洋上に於ける莫大なる通商を壟断制御する力を有すべく…
幸に日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』*政府に手を觸られずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たはるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり。」(『抹殺された大東亜戦争』p.114-115) *イギリスのこと
この引用部分は、ペリーが日本に向かう途上で記した海軍長官宛書簡(マデイラ発1852年12月14日付)であるが、軍隊を派遣してでも日本領土の一部を占有する意図が明らかだ。
また同上書に、日米和親条約締結後にペリーが本国政府に提出した報告書も紹介されている。ここでペリーは、小笠原諸島を植民地にする考えであることを明確に述べている。
「余の計画は、小笠原諸島の主島(父島)の内ロイド港に、一植民地を建設することとなし、その主権については今後の討議に附せられるべきである。」(同上 p.115)
ペリーは、中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えなのだが、アメリカの方針も同様のものであったはずである。
そのことは、ペリー来航までのアメリカの年表を見れば見当がつく。
1845年 テキサス併合
1846年 オレゴン併合、米墨戦争勃発
1848年 米墨戦争終戦 メキシコよりテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを取得
1849年 ハワイと和親条約締結
1853年 アリゾナ南部をメキシコより買収、ペリーが浦賀に来航
と、ペリー来航の直前のわずか8年間に北米大陸の西半分を獲得し、現在の米国の領土をほぼ手中に収めている。しかもその領土の奪い方はひどかった。
たとえばテキサスは、もともとはメキシコの領土であったが、黒人奴隷を使役するプランテーションを経営するアメリカ人移民が、綿花栽培の土地を求めて続々とテキサスに移住し、勝手にメキシコからの独立を宣言する。

それを制圧するために、メキシコ軍がアラモ砦に立て籠るアメリカ人入植者を襲撃し、銃撃戦の末にアラモ砦は陥落する。
アメリカはそれを口実とし「リメンバー・アラモ」をスローガンにしてメキシコに宣戦布告し(アラモ砦の戦い)アメリカが勝利した。
1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立し、その後米国が1845年に併合する。
翌1846年にテキサスを巡り再度アメリカとメキシコとが戦うも(米墨戦争)アメリカが勝利し、メキシコから広大な領土(テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア)を奪い取ったという流れだ。

北米大陸をほぼ手中にした後は、アメリカの領土拡大は西に進むしかない。たまたまカリフォルニアで砂金が発見されたことからゴールドラッシュを生み、西へ西へという辺境開拓の勢いはさらに強まった。
こんな時期にペリーが浦賀に来航することの意味は、普通に考えれば日本領土の侵略目的しか考えられない。
ちなみにアメリカは、19世紀以降キリスト教宣教師を通じてハワイ王朝への影響力を強め、先住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥し、ペリー来航の翌年である1854年にはカメハメハ三世に対して併合要求を突き付けている。
また朝鮮に対しては1866年にアメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が朝鮮に不法侵入し民間人の虐殺や略奪を働いたため朝鮮側の報復により焼き討ちされた事件があった。
1871年にアメリカはジェネラル・シャーマン号事件の謝罪と通商を要求し、アジア艦隊に朝鮮襲撃を命令し、極東艦隊司令長官ロジャースは、5隻の軍艦を引き連れて江華島に現れ、陸戦隊を上陸させているのだが、このような史実は勝岡氏の著書を読んで初めて知ったことだ。
このようなアメリカの侵略の歴史を知らずして、幕末以降の時代を正しく理解できるとは到底思えないのだが、そういう史実を書いた論文がGHQによって抹消されている。
次の文章は『中國評論』の昭和21年6月号に掲載予定であった、石濱知行氏の「中國民主化と米國の役割」という論文だが、引用部分がすべてGHQにより削除されている。
「ハワイ及びフィリッピン併合よりも三十年前に朝鮮に着目し朝鮮の江華灣に艦隊を入れて、『四八一門の大砲を有する五要塞を破壊し、五〇の軍旗を奪ひ、二五〇名の朝鮮兵士を殺し多数の負傷者を出す』(モーズ、支那帝国の國際關係、七頁)ことによつてはじめてアジア大陸に延びたアメリカ資本主義は『門戸開放・機會均等』によつて列國の對中國政策に割り込み『領土保全。中國獨立』政策によつて日本帝国主義を廢除し、いまや『中國民主化』のスローガンによつて漸く多年の収穫を刈り取らんとしつつある。」(同上書p.116-117)
要するにGHQは、日本人にアメリカの侵略の史実を歴史教科書に書くことを許さなかったし、今もその記述はタブーとなっているということなのだ。
次に紹介するのは、『文芸春秋』昭和21年10月の森恭三氏の論文「『邊境(へんきょう)』の開拓」という論文で、この文章はGHQによる検閲で全文が削除となっている。
「ゴールド・ラッシュ、人口の大移動は、新大陸横断鐡道の建設を刺戟した。何萬といふ支那人苦力によつてきづかれたユニオン・パシフィック鐡道がはじめて大西洋と太平洋をむすんだのは1869年のことである。(中略)」
米國人にとつては、邊境といふものは、いつも西にあつたので太平洋岸にいたるまで開拓しつくし、その岸になつて、あたらしい邊境を物色するときも、自然、その眼は西にそそがれた。だから、太平洋への關心は、米國として、ある意味では、歴史的因縁といへよう。
まして、對支貿易は、クリッパー帆船の昔から、もつと有利な商賣として、ニユーイングランドから南米の南端を迂回する航路が開かれてゐた。ニ大洋の結合、支那にいたる距離の短縮…が至上命令とされるにいたったのも、自然の勢であつた。」(同上書p.112)
アメリカの究極の狙いは中国のマーケットにあったのだが、当時の中国は既に英国が大西洋航路で利権を押さえており、それに対抗するためには、アメリカは太平洋航路を開拓するしかなかった。その目的を達するためにアメリカには、ハワイも日本も必要であったというわけである。
勝岡氏の本を読んで驚いたのだが、太平洋戦争で日本が敗れた1945年8月14日付のニューヨーク・タイムスの社説にはこう書かれていたのだそうだ。
「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ。」(同上書p.113)
このニューヨーク・タイムスの社説は、アメリカ人の本音なのだと思う。
しかしこのような社説を即座に理解できるようなアメリカの世界侵略の史実を知る機会が、今までほとんどなかったのは私ばかりではないだろう。
日本人には未だに意図的に知らされていない歴史があるということであり、その意味では戦後はまだ終わったわけではないのだと思う。

私が学生だった頃には欧米列強が世界を侵略し植民地化した地図が教科書に掲載されていた記憶があるのだが、今の教科書にはこのような地図がなくなっているのに気が付いた。第二次世界大戦が行われていた時は、日本のほかに独立国の体裁を維持していたのは、辛うじてタイとかエチオピアぐらいしかなかったのではないか。そのことを知らずして、近現代の歴史を正しく理解できるとは思えないのだ。
GHQによって押し付けられた日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、GHQがこの考え方を日本国民に浸透させるためには、「諸国民」が侵略国であるという歴史であっては都合が悪かったのではないのか。
日本人はGHQによる占領時代以降、綺麗ごとの歴史に洗脳されてしまって、いつのまにか国民の生命も財産も裸になったも同然だ。国民の生命も財産も他国に委ねながら、自国を守ることができるというのは、過去の侵略の歴史に照らせば幻想でしかない。
アメリカのテキサス併合の手口を振り返ると、アメリカはまずテキサスに移民を送り込み、それからアメリカ移民がメキシコからの独立を宣言し、アメリカ軍が動いてテキサス国の独立を成就させ、その後にアメリカに併合させている。
この手法ならその気にさえなれば、今の日本の領土を奪うことは決して難しくはないだろう。
領土問題は、決して尖閣諸島や竹島だけが問題なのではない。
バブル崩壊以降の経済施策に問題があったのだと思うのだが、地方の多くは若い世代が生計を立てることが厳しく、高齢化・過疎化が進むばかりだ。特に小泉改革以降は、地方の経済がさらに縮小し、国土面積の大半が過疎化・高齢化していくのに有効な対策が講じられていない。
もしわが国が地方の過疎対策として大量の外国人移民を受け入れて、さらに参政権まで認めたらどういう危険なことが起こり得るかは、過去の歴史を知っていれば容易に想像できるはずなのだが、欧米列強や中国による侵略の真実を国民に学ばせず、マスコミもそれを広めようとしない。

自民党を作った吉田茂が「歴史に学ばない国民は滅びる」と言ったそうだが、日本人の大半はGHQによって封印された歴史を知らないだけではなく、戦勝国にとって都合の良い歴史観に洗脳されてしまっており、その洗脳を解くことは容易なことではないだろう。
今の日本人はまず洗脳を解かなければ真実に近づけないという意味で、「歴史に学ばない」国民よりもなおさら危険な状態にあるとの認識が必要であると思う。
日本がチベットやウイグルのようにならないことを祈るばかりである。
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ペリーは何のためにわが国に来たのか。市販されている高校教科書『もう一度読む山川日本史』にはこう書かれている。

「そのころアメリカは、北太平洋での捕鯨や太平洋を横断して中国にいたる新しい貿易ルートを開拓するために、日本の港で食料や燃料を補給する必要を感じていた。このため上陸したペリーは、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を幕府側の役人に手渡した。」(『もう一度読む山川日本史』p.209)
と、まるで野心のかけらもないような書き方になっている。これでは江戸幕府がなぜあれだけ抵抗したかが見えてこないし、なぜペリーがかくも強硬であったかという事がわかるとは思えない。その魂胆がどこにあったかという肝心な点については教科書には何も書かれていないのと同じだ。
前回の記事で紹介した勝岡寛次氏の『抹殺された大東亜戦争』に『ペルリ提督日本遠征記』の重要な部分が引用されている。

「…若し日本政府が本島内にかかる[捕鯨船の避難・給水用の]港を許與することを拒否せば、且若し軍隊と流血とに頼ることなくしてはそれを獲ること能はざりせば、吾が艦隊は、先づ最初に日本南部の一二の島内によき港を手に入れ、水と食料とを獲るに便利なる所に集合地を確立し、而して親切温和なる待遇によって住民を待遇し、彼等と友好を結ぶやう努力することこそ望ましく、またかく望むことは誠に當然ならん。(中略)
…大英国はすでに東印度及び支那の諸海灣に於て、最も重要なる地點を占有し居れり。殊に支那の海灣に於て然り。
彼等はシンガポールをもつて西南の門戸を、他方香港によつて東北の門戸を制扼[制圧]し、…海洋上に於ける莫大なる通商を壟断制御する力を有すべく…
幸に日本及び太平洋上のその他の多くの島々は、未だこの『併呑』*政府に手を觸られずして残れり。而してそのあるものは、合衆国にとりて重大となるべき運命を有する通商路の途中に横たはるものなれば、時を移さず十分なる数の避難港を獲得するために積極的方策を採るべきなり。」(『抹殺された大東亜戦争』p.114-115) *イギリスのこと
この引用部分は、ペリーが日本に向かう途上で記した海軍長官宛書簡(マデイラ発1852年12月14日付)であるが、軍隊を派遣してでも日本領土の一部を占有する意図が明らかだ。
また同上書に、日米和親条約締結後にペリーが本国政府に提出した報告書も紹介されている。ここでペリーは、小笠原諸島を植民地にする考えであることを明確に述べている。
「余の計画は、小笠原諸島の主島(父島)の内ロイド港に、一植民地を建設することとなし、その主権については今後の討議に附せられるべきである。」(同上 p.115)
ペリーは、中国に向かう戦略上の日本列島の要衝の地を、イギリス政府が触手を伸ばす前に力づくで抑えようという考えなのだが、アメリカの方針も同様のものであったはずである。
そのことは、ペリー来航までのアメリカの年表を見れば見当がつく。
1845年 テキサス併合
1846年 オレゴン併合、米墨戦争勃発
1848年 米墨戦争終戦 メキシコよりテキサス、ニューメキシコ、カリフォルニアを取得
1849年 ハワイと和親条約締結
1853年 アリゾナ南部をメキシコより買収、ペリーが浦賀に来航
と、ペリー来航の直前のわずか8年間に北米大陸の西半分を獲得し、現在の米国の領土をほぼ手中に収めている。しかもその領土の奪い方はひどかった。
たとえばテキサスは、もともとはメキシコの領土であったが、黒人奴隷を使役するプランテーションを経営するアメリカ人移民が、綿花栽培の土地を求めて続々とテキサスに移住し、勝手にメキシコからの独立を宣言する。

それを制圧するために、メキシコ軍がアラモ砦に立て籠るアメリカ人入植者を襲撃し、銃撃戦の末にアラモ砦は陥落する。
アメリカはそれを口実とし「リメンバー・アラモ」をスローガンにしてメキシコに宣戦布告し(アラモ砦の戦い)アメリカが勝利した。
1836年にメキシコ領テハスはテキサス共和国として独立し、その後米国が1845年に併合する。
翌1846年にテキサスを巡り再度アメリカとメキシコとが戦うも(米墨戦争)アメリカが勝利し、メキシコから広大な領土(テキサス、ニューメキシコ、カリフォルニア)を奪い取ったという流れだ。

北米大陸をほぼ手中にした後は、アメリカの領土拡大は西に進むしかない。たまたまカリフォルニアで砂金が発見されたことからゴールドラッシュを生み、西へ西へという辺境開拓の勢いはさらに強まった。
こんな時期にペリーが浦賀に来航することの意味は、普通に考えれば日本領土の侵略目的しか考えられない。
ちなみにアメリカは、19世紀以降キリスト教宣教師を通じてハワイ王朝への影響力を強め、先住民の伝統文化や儀式を邪教として排斥し、ペリー来航の翌年である1854年にはカメハメハ三世に対して併合要求を突き付けている。
また朝鮮に対しては1866年にアメリカの武装商船ジェネラル・シャーマン号が朝鮮に不法侵入し民間人の虐殺や略奪を働いたため朝鮮側の報復により焼き討ちされた事件があった。
1871年にアメリカはジェネラル・シャーマン号事件の謝罪と通商を要求し、アジア艦隊に朝鮮襲撃を命令し、極東艦隊司令長官ロジャースは、5隻の軍艦を引き連れて江華島に現れ、陸戦隊を上陸させているのだが、このような史実は勝岡氏の著書を読んで初めて知ったことだ。
このようなアメリカの侵略の歴史を知らずして、幕末以降の時代を正しく理解できるとは到底思えないのだが、そういう史実を書いた論文がGHQによって抹消されている。
次の文章は『中國評論』の昭和21年6月号に掲載予定であった、石濱知行氏の「中國民主化と米國の役割」という論文だが、引用部分がすべてGHQにより削除されている。
「ハワイ及びフィリッピン併合よりも三十年前に朝鮮に着目し朝鮮の江華灣に艦隊を入れて、『四八一門の大砲を有する五要塞を破壊し、五〇の軍旗を奪ひ、二五〇名の朝鮮兵士を殺し多数の負傷者を出す』(モーズ、支那帝国の國際關係、七頁)ことによつてはじめてアジア大陸に延びたアメリカ資本主義は『門戸開放・機會均等』によつて列國の對中國政策に割り込み『領土保全。中國獨立』政策によつて日本帝国主義を廢除し、いまや『中國民主化』のスローガンによつて漸く多年の収穫を刈り取らんとしつつある。」(同上書p.116-117)
要するにGHQは、日本人にアメリカの侵略の史実を歴史教科書に書くことを許さなかったし、今もその記述はタブーとなっているということなのだ。
次に紹介するのは、『文芸春秋』昭和21年10月の森恭三氏の論文「『邊境(へんきょう)』の開拓」という論文で、この文章はGHQによる検閲で全文が削除となっている。
「ゴールド・ラッシュ、人口の大移動は、新大陸横断鐡道の建設を刺戟した。何萬といふ支那人苦力によつてきづかれたユニオン・パシフィック鐡道がはじめて大西洋と太平洋をむすんだのは1869年のことである。(中略)」
米國人にとつては、邊境といふものは、いつも西にあつたので太平洋岸にいたるまで開拓しつくし、その岸になつて、あたらしい邊境を物色するときも、自然、その眼は西にそそがれた。だから、太平洋への關心は、米國として、ある意味では、歴史的因縁といへよう。
まして、對支貿易は、クリッパー帆船の昔から、もつと有利な商賣として、ニユーイングランドから南米の南端を迂回する航路が開かれてゐた。ニ大洋の結合、支那にいたる距離の短縮…が至上命令とされるにいたったのも、自然の勢であつた。」(同上書p.112)
アメリカの究極の狙いは中国のマーケットにあったのだが、当時の中国は既に英国が大西洋航路で利権を押さえており、それに対抗するためには、アメリカは太平洋航路を開拓するしかなかった。その目的を達するためにアメリカには、ハワイも日本も必要であったというわけである。
勝岡氏の本を読んで驚いたのだが、太平洋戦争で日本が敗れた1945年8月14日付のニューヨーク・タイムスの社説にはこう書かれていたのだそうだ。
「我々は初めてペルリ以来の願望を達した。もはや太平洋に邪魔はいない。これで中国大陸のマーケットは我々のものになるのだ。」(同上書p.113)
このニューヨーク・タイムスの社説は、アメリカ人の本音なのだと思う。
しかしこのような社説を即座に理解できるようなアメリカの世界侵略の史実を知る機会が、今までほとんどなかったのは私ばかりではないだろう。
日本人には未だに意図的に知らされていない歴史があるということであり、その意味では戦後はまだ終わったわけではないのだと思う。

私が学生だった頃には欧米列強が世界を侵略し植民地化した地図が教科書に掲載されていた記憶があるのだが、今の教科書にはこのような地図がなくなっているのに気が付いた。第二次世界大戦が行われていた時は、日本のほかに独立国の体裁を維持していたのは、辛うじてタイとかエチオピアぐらいしかなかったのではないか。そのことを知らずして、近現代の歴史を正しく理解できるとは思えないのだ。
GHQによって押し付けられた日本国憲法の前文に「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあるが、GHQがこの考え方を日本国民に浸透させるためには、「諸国民」が侵略国であるという歴史であっては都合が悪かったのではないのか。
日本人はGHQによる占領時代以降、綺麗ごとの歴史に洗脳されてしまって、いつのまにか国民の生命も財産も裸になったも同然だ。国民の生命も財産も他国に委ねながら、自国を守ることができるというのは、過去の侵略の歴史に照らせば幻想でしかない。
アメリカのテキサス併合の手口を振り返ると、アメリカはまずテキサスに移民を送り込み、それからアメリカ移民がメキシコからの独立を宣言し、アメリカ軍が動いてテキサス国の独立を成就させ、その後にアメリカに併合させている。
この手法ならその気にさえなれば、今の日本の領土を奪うことは決して難しくはないだろう。
領土問題は、決して尖閣諸島や竹島だけが問題なのではない。
バブル崩壊以降の経済施策に問題があったのだと思うのだが、地方の多くは若い世代が生計を立てることが厳しく、高齢化・過疎化が進むばかりだ。特に小泉改革以降は、地方の経済がさらに縮小し、国土面積の大半が過疎化・高齢化していくのに有効な対策が講じられていない。
もしわが国が地方の過疎対策として大量の外国人移民を受け入れて、さらに参政権まで認めたらどういう危険なことが起こり得るかは、過去の歴史を知っていれば容易に想像できるはずなのだが、欧米列強や中国による侵略の真実を国民に学ばせず、マスコミもそれを広めようとしない。

自民党を作った吉田茂が「歴史に学ばない国民は滅びる」と言ったそうだが、日本人の大半はGHQによって封印された歴史を知らないだけではなく、戦勝国にとって都合の良い歴史観に洗脳されてしまっており、その洗脳を解くことは容易なことではないだろう。
今の日本人はまず洗脳を解かなければ真実に近づけないという意味で、「歴史に学ばない」国民よりもなおさら危険な状態にあるとの認識が必要であると思う。
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