坂上田村麻呂と清水寺
2月の寒い時期は京都に来る観光客が少ない時期ではあるのだが、週末ともなるとさすがに清水寺は別格で、訪れる観光客は多かった。

この清水寺の広い境内の中に、1994年に建立された「阿弖流為 母禮之碑」(アテルイ モレの碑)がある。多くの観光客と同様に、私もこの碑の前を今まで何度も通り過ぎてきただけだった。

この碑が何のために建立されたのか、長い間私も良く知らなかったので調べてみると、結構興味がわいたので今回はこの碑のことを記すことにしたい。
私が学生時代に歴史を学んだ時は「阿弖流為」「母禮」という人物を学んだ記憶がないのだが、最近の教科書では書かれていることがあるそうだ。「阿弖流為」は平安時代初期の蝦夷(えみし)の頭領であり、「母禮」は副頭領である。
この碑の裏にこう書かれている。
「八世紀の末頃まで、東北・北上川流域を日高見国(ひたかみくに)と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服属しない東北の民を蝦夷(えみし)と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征討軍を動員した。胆沢(いざわ:岩手県水沢市地方)の首領、大墓公阿弖流為(たのものきみあてるい)」は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏(すぶせ)の戦いでは、勇猛果敢に奮闘し征東軍に多大の損害を与えた。八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き、帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に下った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将磐具公母礼(いわぐのきみもれ)を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母禮は八〇二年八月一三日河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄以って冥さるべし。」

碑には「岩手県水沢市」と書いてあるが、その後水沢市は平成18年(2006)の市町村合併により「奥州市水沢区」となっているようだ。
東北地方には大和民族とは異なる人々の生活があった。その人々を政府は「蝦夷」と呼んで蔑み、8世紀の後半にはその地方を支配しようとしたが、この動きに抵抗し自衛のために戦ったのが阿弖流為たちであった。

政府軍が相当苦戦した記録が『続日本紀』に残されている。
延暦8年(789)に征東将軍の紀古佐美(きのこさみ)が遠征し、阿弖流為の居所の近くまで進軍したが、退路を断たれて挟み撃ちとなり多くの戦死者・溺死者を出して敗退している。(巣伏の戦い)
この戦いがあった巣伏(すふし)という場所は、北上川は何度も流域を変えているので特定は難しいが、岩手県奥州市江刺区愛宕金谷に「巣伏古戦場碑」が建てられており、また奥州市水沢区佐倉河北田に「巣伏古戦場跡公園」があり、その公園の中に「巣伏の戦いの跡」と書かれた石碑があるという。
『続日本紀』を読むと、大敗したにもかかわらず自分の手柄ばかりを大げさに報告する紀古佐美に、桓武天皇が激怒する場面が記述されている。面白いので『続日本紀』の現代語訳の一部を引用する。
「七月十七日 天皇は持節征東大将軍の紀朝臣古佐美らに次のように勅した。
…いま先の奏状と後の奏状を調べると、賊の首を斬りとることができたのは八十九首のみで、それに対し官軍の死亡者は千人余り。負傷者に至ってはおよそ二千人に及ぼうとしている。そもそも斬り取った賊の首は百級にも満たなくて官軍の被害者は三千人に及んでいる。このような状態で、どうして喜べるというのであろうか。ましてや大軍が賊の地を出て還る際に、凶悪な賊に追討されたことは一度ならずあった。ところが奏上では『大兵を挙げて一たび攻撃すると、たちまち荒廃の地になりました』といっている。事の経過を追ってみれば、これはほとんど虚飾であると思う。
…すべて戦勝報告を奏上する者は、賊を平定し功を立ててからその後に、報告すべきである。ところが今、賊の奥地も極めずに、その集落を攻略したといい、慶事と称して至急の駅使を遣わしている。恥ずかしいとは思わないのか。」(講談社学術文庫『続日本紀(下)』p.418-420)
桓武天皇は紀古佐美を征東大将軍から外し、延暦12年(793)に征夷大使として大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を東北に送った。その戦役で征東副使である坂上田村麻呂が活躍したことが『類聚国史』に簡記されている。(「副将軍坂上大宿祢田村麻呂以下征蝦夷。」)
坂上田村麻呂は、延暦15年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任し、翌年には征夷大将軍に任じられ、延暦20年(801)には蝦夷を討ったと報告している。
また坂上田村麻呂は、いったん帰京してから再び出征し、延暦21年(802)のはじめに北上川中流域に胆沢城を築き、その年の夏には、蝦夷の頭領阿弖流為と副頭領母禮を服属させることに成功している。
清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」の碑に刻まれている話は、正史にはどのように記述されているのだろうか。いろいろ調べてみると『日本後紀 巻第十』逸文(『類聚国史』『日本紀略』)にその記録が見つかった。講談社学術文庫の現代語訳を引用する。
「(四月十五日) 造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢禰田村麻呂らが、『夷大墓公阿弖利為(えみしおおものきみあてりい)・磐具公母礼(いわぐのきみもれ)らが五百余人の仲間を率いて降伏しました』と言上してきた。」(講談社学術文庫『日本後紀(上)』p.272)
「(七月十日) 造陸奥国胆沢城使坂上田村麻呂が帰京した。夷大墓公阿弖利為と磐具公母礼ら二人を従えていた。」(同上書 p.274)
「(八月十三日) 夷大墓公阿弖利為・磐具公母礼らを斬刑とした。両人は陸奥国内の奥地である胆沢地方の蝦夷の首長であった。両人を斬刑に処する時、将軍坂上田村麻呂らが『今回は阿弖利為・母礼の希望を認めて郷里へ戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせようと思います』と申し出たが、公卿らは自分たちの見解に固執して『夷らは性格が野蛮で、約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕えた賊の長を、もし願いどおり陸奥国の奥地へ帰せば、いわゆる虎を活かして災いをあとに残すのと同じである』と言い、ついに両人を引き出し、河内国の植山で斬った。」(同上書 p.275~276)
と、想像していた以上に詳しく書かれていた。
清水寺の「阿弖流為 母禮之碑」にある、「蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく」という表現は正史には書かれていない部分だが、田村麻呂が両人を「政府に助命嘆願」したことについては間違いないと考えて良いだろう。
阿弖流為らが処刑された「河内国の植山」の場所については諸説があるが、枚方市牧野阪2丁目の牧野公園(阪上公園)に「阿弖流為の首塚」があるという。

坂上田村麻呂は、延暦23年(804)に再び征夷大将軍に任命され、三度目の東北遠征を期したのだが、民の負担を考慮して中止となり、その翌年には参議、大同元年(806)には中納言、弘仁元年(810)には大納言に任じられ順調に出世していく。
次に清水寺と坂上田村麻呂との関係を書かねばならない。
清水寺の開創は宝亀9年(778)で奈良子島寺(こじまでら)の賢心(けんしん:後の延鎮上人)という僧侶だが当時は小さい草庵があっただけだったという。その賢心が宝亀11年(780)に坂上田村麻呂と出会い、賢心の話に感銘した田村麻呂が、自らの邸宅を仏殿に寄進したのが清水寺の創建だと言い伝えられており、その後幾度か災害や戦災に遭い再建復興を繰り返してきたそうで、現在の伽藍は徳川三代将軍家光により寛永10年(1633)に再建されたものだという。
http://www.kiyomizudera.or.jp/about/history.html

清水寺のホームページによると、坂上田村麻呂により清水寺の諸堂が建立されたとあるのだが、どうして一武人にそれだけ豊かな財力があったのかと長い間不思議に思ってきた。その点をネットで調べると、出典がよく解らないのだが、桓武天皇から坂上田村麻呂に長岡京の紫宸殿が下賜されたことを書いているサイトがやたらある。JTBやJR西日本のサイトでもそう書かれているので、そのような言い伝えがあることは間違いなさそうだ。
以前このブログで「桓武天皇が平城京を捨てたあと、二度も遷都を行った経緯について」という記事を書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-65.html
桓武天皇は延暦3年(784)に長岡京に遷都したのだが、延暦四年(785)に長岡京造営の責任者・藤原種継が何者かによって射殺され、その事件に連座したとして桓武天皇の異母弟で皇太子であった早良親王が憤死。その後桓武天皇の身の回りに不幸な出来事が相続き、桓武天皇は延暦13年(794)に平安京への遷都を行なう。その時には長岡には紫宸殿となるべき建物が残されていたのだが、使い道のなくなった建物を、東征の功績にと田村麻呂に下賜したという可能性は高いような気がする。
田村麻呂の時代には清水の舞台は存在しなかったようだが、それでもこれだけの境内に相応しい本堂となれば、かなりの規模であったはずだ。桓武天皇の下賜がなければ、坂上田村麻呂が大きな堂宇を建てることは難しかったのではなかったか。
坂上田村麻呂は光仁天皇、桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇と4代の天皇に仕え、嵯峨天皇の時代の弘仁2年(811)5月に54歳で没したが、『日本後紀』巻第二十一に田村麻呂の業績を讃える文章がある。業績を書いた後にこう締めくくっている。
「…しばしば征夷のため辺地で軍事行動に従事し、出動するたびに功績をあげた。寛容な態度で兵士に臨み、命を惜しまず戦う力をひきだした。粟田の別荘で死去し、朝廷は従二位を贈った。行年五十四」(講談社学術文庫『日本後紀 中』p.229)
短い文章ではあるが、坂上田村麻呂は、武人としてだけではなく、人間的にも素晴らしい人物であったことが窺える。だからこそ、阿弖流為と母礼が田村麻呂に恭順の意を示したのだと思うし、4代もの天皇から厚く信頼されたのだと思う。
坂上田村麻呂は嵯峨天皇の勅命により、武具をつけたまま都に向かって立ったまま葬られたと言い伝えられているのだが、おそらくそれは真実なのだろう。

大正八年(1919)に発掘された京都市山科区西野山岩ケ谷町の「西野山古墓」は八世紀後期か九世紀前期のものとされ、内部からは武人のものと思われる純金装飾の太刀、金銀の鏡などが出土したという。この場所は平安後期に編纂された『清水寺縁起』に記されている場所とほぼ一致するのだそうだ。
http://saint-just.seesaa.net/article/43909122.html
田村麻呂は死してもなお、都を守り、国を守ってほしいとの嵯峨天皇の思いが伝わってくるようだ。
嵯峨天皇からすれば東北地方は京の都の「鬼門」となる東北の方角であったがゆえに、その東北の「蝦夷」を打ち破った坂上田村麻呂は古代の英雄となり、『公卿補任』という平安時代後期に編纂された書物には、田村麻呂について「毘沙門天の化身来りて我が国を護る」と書かれているという。
その後坂上田村麻呂は「毘沙門天の化身」と崇められるようになる。坂上田村麻呂が創建したとされる寺社が東北を中心に各地にあるのはそのためなのだそうだ。
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