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土用の丑の日に鰻を食べるのは

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Category食文化
「土用の丑の日」と言えば誰でも「鰻」を連想する。

しかし、「土用丑の日」とはどういう意味なのかよくわからなかったので、ネットで調べてみることにした。

うなぎ丼

その結果、「土用」というのは、立春、立夏、立秋、立冬の終わりの18日間のことを言い、年に土用が4回ある理屈だが、一般的には立秋前の18日間の土用のことを指すということがわかった。今年の場合、土用の入りは7月20日で土用の明けは8月6日だ。

では、「丑の日」とは何か

太陰暦では一年365日のそれぞれの日が十干・十二支で表現されている。
たとえば今月では、7月13日が十干の最初の「甲」と十二支の最初の「子」との組み合わせの甲子(きのえね)の日になり、翌14日は「乙丑(きのとうし)」と干・支とも一つずつずれていき、10と12の最小公倍数の60日で干支が一巡する。

十二支の方は12日で一巡する一方土用は18日間なので、年によっては土用の期間中「丑」のつく日が2回あることもある計算だが、ちなみに今年の「土用の丑の日」は7月26日の1回だけ。昨年は7月19日と7月30日の2回あったということだ。来年も7月21日と8月2日の2回だそうだ。
二回「丑の日」がある場合、一回目を「土用の丑」、二回目を「二の丑」と呼ぶらしい。もちろん二回も「丑」のつく日があれば、鰻やは商売繁盛まちがいなしだ。

暑い日に鰻を食べて精をつけるというのはわかるが、何故丑の日に食べるのだろうか、いつから食べるようになったかということが気になったのでいろいろ調べてみたら、4つ程の説があることが分かった。

その4つとは、①平賀源内(1728-80)説②春木屋説③大田蜀山人説④鰻二匹説である。

① 平賀源内(1728-1780説
中学や高校の日本史でこの人物を習ったが、エレキテルを組み立てたくらいの事しか習わなかった。いろいろ調べるとかなりの変人らしいが、本草学者であり医者でもあり、蘭学者でもあり、発明家でもあり、作家でもあり、画家でもあるという多芸多才の人だったらしい。

平賀源内

Wikipediaの平賀源内の記事は平賀源内が土用の丑の日を考案したということが書かれている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E8%B3%80%E6%BA%90%E5%86%85
文政5年(1822)に青山白峰が著した「明和誌」という本には次のようなことが書かれているらしい。

商売がうまくいかない鰻屋が夏に売れない鰻を何とか売るために、平賀源内のところに相談に行ったところ、源内は「丑の日に『う』のつく食べ物を食べると夏負けしない」という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めたところ、物知りの源内先生の言うことならということで、その鰻屋は大変繁盛し、その後他の鰻屋も真似るようになって、土用に丑の日に鰻を食べることが定着したという説。

② 春木屋善兵衛説
同じく文政年間の「江戸買物案内」という本に、ある時春木屋という鰻屋に神田和泉橋の藤堂のお屋敷から、旅に出るのに持っていきたいと大量の蒲焼の注文があり、春木屋の主人が、子の日、丑の日、寅の日の三日に分けて鰻を焼き、土蔵に貯蔵して三日間おいたところ、丑の日に焼いた鰻だけが色合い、風味とも変わらなかったので、丑の日に焼いたうなぎを藤堂様に納めた。それ以来、鰻は丑の日がよいということになったという説。

③ 大田蜀山人(1749-1823)説
大田蜀山人は本名を大田南畝といい江戸時代天明期の文人だが、天保10年(1839)に出版された「天保佳話」という本に、鰻屋に相談を持ちかけられた大田南畝が「丑の日に鰻を食べると薬になる」という内容の狂歌をキャッチコピーとして考え出したと書かれている。
太田蜀山人
その後、土用の丑の日に鰻を食べることが定着したという説。

④ 鰻二匹説
平仮名で毛筆を使って、たっぷり墨を使って「うし」と書くと、まるで二匹の鰻のように見えたからという説。

これらの説の中では平賀源内説が一番有名だそうだが、①~③はいずれも江戸時代の後期であり、また現在のように鰻を開いてタレをつけて食べるようになったのは天保年間(1781-1789)と言われており、時期的には江戸時代の文政期から天保期にかけて全国的に拡がっていったと考えてよさそうである。しかしどの説が正しいかは、一つに絞ることにあまり意味がないかもしれない。

鰻の専門業者のホームページを読むと鰻の旬は夏ではなく、天然物は10月末、養殖物は11月以降ということらしいが、平賀源内に相談した鰻屋の主人も、夏に鰻が売れないので源内に相談したことから始まっている。先程の土用の丑に鰻を食べる習慣の起源の諸説から垣間見えるのは、鰻が売れない時期でも鰻を売ろうとする鰻屋の商魂である。

当時はテレビもなければラジオもない、瓦版は江戸時代のはじめに生まれ、江戸時代にはかなり印刷されていたのだが、全国的に情報を広げるメディアがなかったのだから、鰻屋の主人は常連客の有名人をつかまえて、一筆書いてもらって店の宣伝に使うくらいのことはしただろうし、そのことがまた新たな客を呼ぶ効果はあったと思われる。

今でも、田舎に行っても少し有名な店に立ち寄ると、俳優やスポーツ選手などの色紙などが掲げられている。下手な字のものも多いが、中には達筆で洒落たセリフと上手い絵が書かれていて時々感心することがある。そのような色紙があれば、田舎でなくとも今でもお店の最大の宣伝材料になるのではないか。

江戸時代後期に平賀源内や大田蜀山人が全国レベルで一般庶民に知られていたとは思えないが、少なくとも地元の人は名前くらいは知っている人が多かっただろう。そんな有名人がこの店を贔屓にしているし、体に良いと言っているなら食べに行こうと考える人が何人いてもおかしくない。かくいう私も、有名人が雑誌などで勧めている店があれば、近ければ行ってみたくなる人間だ。

それにしても、最近は景気の悪いご時世で、近くのレストランや喫茶店の閉店が続いている。客が来ないことを理由に簡単にやめてしまうくらいなら、はじめから何もやらない方が良い。
商売はやり方次第で客が集まるものだ。味が良いことは絶対条件だが、店に行くきっかけを作る工夫と、また行くことが楽しみとなる工夫をする店主が少なくなってきているのは残念だ。その二つの工夫をしている店は、小さくても生き残っているし、そういう店をいくつも知っている。
いつの時代も、個人店主が絶対に失ってはならないものは、商魂だと思う。
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