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中津渓谷から秋葉神社に向かい、最後に武田勝頼伝説の地を訪ねて~~高知方面旅行4

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Category高知県
朝食を摂ってから、すぐ近くの中津渓谷に向かう。この渓谷は高知県立自然公園に指定されている。

渓谷の入り口から遊歩道に入ると、巨岩・奇岩が幾つも連続し、狭い岩の間を通り抜けるようなところがいくつかあったが、よく整備されていて思ったよりも歩きやすかった。
今の季節でも充分美しい渓谷であるが、紅葉の時期は両岸が赤く色づいて、見事な景色になるのだそうだ。

雨竜の滝

15分くらい歩くと雨竜の滝に到着する。この滝はかなり近くから眺めることが出来る。晴天の日が続いて水量が少ないとはいえ、すごい迫力だ。落差は20mあるという。

竜宮淵

雨竜の滝の上流にある、竜宮淵。このあたりは特に秋の紅葉が美しいのだそうだ。

石柱

遊歩道をずっと歩くと、高さ8mの奇岩に遭遇する。石柱(いしばしら)と名付けられていて、6万年前からの水の浸食作用によってできたものと言われている。

いりもち

渓谷の散策をたっぷり楽しんでから、宿に戻って「仁淀川町で遊ぶ本」に紹介されていた「いりもち」を買って食べた。
ヨモギもちに小豆あんを入れて焼いたものだが、大阪では滅多に味わえなくなった本物のヨモギの香りが嬉しい。

旅館をチェックアウトして、次の目的地は秋葉神社だ。
この秋葉神社で毎年2月11日に土佐の三大祭りであり文化庁の無形民俗文化財に選定され高知県の保護無形民俗文化財に指定されている「秋葉祭り」の大祭が執り行われる。

国道33号線から別枝大橋を渡り、そこから秋葉神社につながる道は5km以上の細い山道だった。ここまで来ると、愛媛県との県境も近そうだ。

秋葉神社正門

これが秋葉神社の鳥居と神門だ。かなり急な階段を登りきると、拝殿と本殿があり、社務所がある。この神社の木組みや建築彫刻もまたすごい。

秋葉神社

上記画像は秋葉神社の本殿だが、脇障子に「櫻井の別れ」を題材にした彫刻がなされている。

秋葉神社木組み

本殿の腰組みも見事で、中ぞなえには十二支が彫られている。

秋葉神社うさぎ

ウサギの彫刻は特に気に入ってしまった。

前回の記事で河嶋山神社を紹介し、その建築彫刻は長州大工の門井友助によるものであることをを書いたが、次のURLで秋葉神社は門井友助の曾孫である門井鳳雲が建てたものであり、昭和15年(1940)に上棟式が行われたことがわかる。
http://blogs.yahoo.co.jp/muronaka0702/25440727.html
http://blogs.yahoo.co.jp/muronaka0702/13072796.html

この秋葉神社の由緒が案内板にこう書かれていた。
「社伝によれば 寿永年間 安徳帝の一行に 警護役としてこの地に随行してきた常陸の国筑波城主 佐藤清巌が遠州秋葉山から御祭神(秋葉様)を岩屋(現岩屋神社裏)の岩窟に勧請したのが当神社のはじまりです
秋葉様はその後 法泉寺 番所役 市川家と遷り祀られてきました 時は移り寛政年間 地区民そろって秋葉様を地区の守り神として御神徳を仰ぐことを市川家に願い出ると『年に一度の後神幸を仰ぐ』との約束で快諾 庄屋中越清太郎に指図を願うと同氏は私有地を社地に献上 地区民大いに喜び力を合わせてここに社殿を造営 御祭神を遷座しました 寛政六年(1789)一月一八日のこと」

安徳天皇

平家物語巻第十一では平家は壇の浦の戦いで敗れ、当時8歳だった安徳天皇は祖母の二位尼(平清盛の妻)に抱かれて入水した情景が描かれていて、歴史の教科書でもそれが史実のように書かれている。しかし平家物語は平家滅亡から相当後に書かれたものであり、作者も明記されていないのだが、この平家物語に書かれていることをそのまま史実と考えていいとは思えない。

以前このブログで祖谷の平家屋敷の記事を書いたとき、安徳天皇が隠れ住んでいたと伝承されている場所が全国で20か所ほどあることを書いた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-68.html

平家方にとっては一族が再結集して再度源氏と戦うためには安徳天皇は絶対に守るべき存在であり、身代わりを壇ノ浦に送って天皇は別ルートを進んだという可能性はかなり高いのではないか。 当時は写真もなければビデオもない。平家方からすれば、子供にそれなりの衣装を着せれば、源氏方を容易に攪乱できたであろうし、実際に何人もの身代わりを作って源氏方を攪乱して本物の安徳天皇がどこにいるかわからないようにさせたから、全国で安徳天皇の伝承地が幾つも残っていると考えた方がスッキリするのだ。
一方、源氏方にとっては、安徳天皇が死んだことを広めて平家勢力の再結集を防ぎたいと考えたはずだ。だから平家物語や源平盛衰記で壇ノ浦で二位の尼と共に入水したと物語を書かせ、下関に安徳天皇陵を作り、琵琶法師に平家物語を語らせて広めようと考えることは当然のことではないのか。

安徳天皇について諸説があるのは源平の情報合戦の結果だと考えるのだが、私は壇ノ浦の戦い以降も安徳天皇が生きていた可能性は高いと思っているし、とりわけ四国の山奥で安徳天皇が守られていたということは、場所の特定は難しいにせよ、十分あり得る話だと考えている。
今回の旅行では行かなかったが、秋葉神社からさらに南に行くと安徳天皇御陵と伝承されている場所があり、その近くに白王八幡宮という神社があって平家の人々ゆかりの太鼓踊りが今も受け継がれているのだそうだ。

秋葉神社の由緒に戻ろう。
平家の落武者の一人である佐藤清巌が「遠州秋葉山」から御祭神(秋葉様)を勧請したとあるが、「秋葉様」というのは静岡県浜松市天竜区春野町にある「秋葉権現」のことで、秋葉山の山岳信仰と修験道とが融合した神仏習合の神であり、「遠州秋葉山」には観世音菩薩を本尊とする秋葉寺が存在していたという。慶応4年(1868)に神仏分離・廃仏毀釈により、「遠州秋葉山」の修験道の神である「秋葉権現」は廃され、秋葉寺は廃寺とされて祭神を火産大神(ほぶすなのみこと)とする秋葉神社として再建されたそうなのだが、ここから各地に設けられた分社は、それぞれの土地の事情で神社または寺として独立の道を歩むことになったという。
仁淀川町の秋葉神社も明治の時期に正式に神社にさせられたではないか。鳥居を過ぎると大きな神門があるのだが、この門はどこかお寺の山門に似ており、廃仏毀釈以前はここに仁王像が立っていたのかもしれない。

また案内板には寛政年間に庄屋の中越清太郎が私有地を献上して、地域の人々が力を合わせてこの地に社殿を造営したとある。要するに地元の人々がお金を出し合い、社殿建築に労力も提供したということだと思うのだが、昔の仁淀川町はよほど豊かな土地柄であったことは間違いがないだろう。
今の社殿は昭和期に改築された記録があるが、その経緯についてはいろいろネットで調べてみてもよく解らなかった。

そして寛政六年に社殿が完成してその御祭神を市川家から遷座した日である一月一八日にちなんで、旧暦の1月16日から18日にかけて秋葉祭りが行われていたのだが、平成6年(1994)になって新暦の2月9日から11日の3日間に変更されたようだ。

img00411.jpg

御神体は御輿に乗って祭りの初日に岩屋神社に安置され、翌日の夜に市川家に遷される。そして3日目が大祭で朝から市川家から約3kmの山道を登って秋葉神社に戻る「練り」が行われるのだそうだ。
秋葉神社の由緒や祭礼の起こりや練りの概要などについては、次のサイトに詳しく書かれている。
http://www.geocities.jp/kyoketu/5605.html

ほら貝の音が響き、太鼓の音とともに、黒い鳥毛や柳や幟や御輿や獅子の賑やかな「練り」の行列は大名行列の様だ。見せ場は「鳥毛ひねり」「御輿」「太刀踊り」などだが、説明するよりも動画を見たほうが良くわかる。
https://www.youtube.com/watch?v=zEolD5i15D0

「練り」といってもただ歩くだけではなく、太鼓の音に合わせて踊りがある。子供も参加するので寒い中を何度も集まって練習する姿が次のURLで紹介されている。地域を挙げて5歳から80歳までの複数の世代が混ざり合って伝統の踊りを承継する環境が作られていることは素晴らしい事である。
http://www.geocities.jp/besshi_akiba/

秋葉神社から、長者地区に向かう。
画像を見て分かるように、この地区は急な斜面に石垣を積んで、何段もの棚田が作られ民家が密集している地域だ。
この場所に石垣棚田が作られたのは400年以上前のことだそうで、今では600枚の田畑があるのだという。

長者の棚田

この棚田の近くに樹齢1200年と言われる長者の大銀杏があるのだが、うまく写真を撮ることができなかった。
長者地区は昭和30年代には人口も多くて、映画館やパチンコ屋があり、星が窪集落には草競馬場まであったというのだが、今は人口が減って多くの棚田が休耕田になっているのは惜しい事である。

仁淀川町観光センターで昼食をとり、最後の目的地である寺村地区に向かう。国道33号線を走り寺村トンネルを抜けてすぐに右折し、さらにトンネルの上の道を北に進むと随分細い道になる。少し進むと寺村観音堂がある。

寺村観音堂

外見では想像できないが、このお堂の中に藤原時代に制作された木造聖観音像(町指定有形民俗文化財)が安置されているという。
この場所は大崎玄蕃(おおさきげんば)の菩提寺である成福寺(じょうふくじ)の跡地なのだそうだが、成福寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となってしまい、今ではこのお堂だけが残っている。ところで大崎玄蕃とは何者なのか。驚くなかれ、この地域には天目山の戦い(1582)を落ちのびた武田勝頼であるとの伝説があるというのだ。

武田勝頼

武田勝頼は武田信玄の四男だが、通説では天目山に向かう途中で滝川一益隊に捕えられ、嫡男の信勝とともに自害したとされている。ところが、この仁淀川町に残る伝説では、武田勝頼は織田軍との戦いで敗れはしたが影武者を使って危機を脱し、当時の土佐の武将・香宗我部氏を頼ってこの地に落ち延びて、大崎玄蕃と名乗ったとされている。この伝説は次のURLにわかりやすく書かれている。
http://katsuyoritosa.web.fc2.com/takedakatsuyori.html

確かに気になる史料や史跡がいくつかこの地に残っているようだ。
この仁淀川町と佐川町に武田家系図が残されており、武田勝頼に関する記述はどちらもほとんど同じなのだそうだ。

また仁淀川町立中央公民館の近くに大崎八幡宮があり、そこには武田剣花菱家紋付手鏡がある。この家紋は高野山に奉蔵されている武田勝頼の肖像画と一致するのだそうだ。

http://www.kochinet.ed.jp/niyodogawa-t/ed/bunka/bunka25.html
また「ひょうたん桜」と呼ばれる有名な桜の奥に大崎半四郎の墓があり、その墓石の裏にはこう彫られているのだそうだ。
「甲斐国領主武田信玄ノ二男ニシテ大崎玄蕃ノ弟ナリ天正十三年二月八日大崎川井土居ニ轉シ大崎半四郎ト稱ス慶長十五年三月十四日土佐領主ノ追手ノ為メ遂ニ於比所ニ討死ス」
要するに、大崎半四郎は武田信玄の二男で大崎玄蕃の弟であるが、土佐領主が追手を差し向けて討ち死にしたというのだ。ほかにも武田家の墓がいくつかあるようだ。
http://www.zephyr.dti.ne.jp/bushi/siseki/hansirou-haka.htm

この旅行の最後に寺村に来たのは、寺村観音堂のほかにどうしても見たいところがもう一つあったからだ。
寺村観音堂からさらに坂を上っていくと廃校となった寺村小学校の跡地がある。この近くから見る仁淀川は素晴らしい景色なので旅館の方から強く勧められていた。

さすがに寺村の道は狭いので、寺村観音堂に車を置いて歩くことにした。
坂を上っていくと仁淀川の流れが少しずつ見えてきた。
旧寺村小学校の少し先に公園のようなところがあった。そこには誰もいなかったが、いくつか椅子が用意されていて、そこから蛇行しながら悠々と流れる仁淀川の景色を見ることができた。

寺村公園の眺め

何千年も変わらず同じ場所を流れてきたこの仁淀川が、流域の各地で長い間人々を豊かにし、素晴らしい地域文化を育んできた。しかし高度成長期以降、地域の生産物が安価な海外商品の流入や代替品との競合にさらされ、和紙の需要も激減したために、この地での生活が苦しくなって若い世代の多くがこの地を去って行き、今は過疎化・高齢化の問題に直面している。
ところが、昨年の東日本大震災で新しい動きが出てきたようだ。海抜ゼロメール地帯の高知市二葉町の住民が仁淀川町との連携を模索し始めたという記事を読んだ。昨年の6月9日の「朝日新聞」の記事を見て、仁淀川町に限らず過疎で悩む地域の復興はこれしかないと思った。
http://futaba-bousai.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-8b71.html

朝日新聞の記事にはこう書かれている。
「南海地震の津波と地盤沈下で長期浸水が想定される高知県で、沿岸の住民が、被災時に地域を挙げて『疎開』できるよう山間部の過疎地の住民と関係づくりを始めている。非常時にお世話になるかわりに、日ごろから山の農産物を購入して過疎の暮らしを支える。東日本大震災をきっかけに双方の危機感が共鳴した。」

農家にとっては農産物を大手流通に販売するよりも、高知市二葉町の住民に直売する方がより多くの収入を得られ、二葉町の住民にとっても大手スーパーよりはるかに新鮮な農産物を安く買い物ができるメリットがある。仁淀川町には廃校になった校舎や空家がいくつかある。受け皿になれるだけの土地はここには充分にあるのだ。
津波はいつどんな形で高知市の住民を襲うかは誰もわからない。いくら高い堤防を作ってもそれで津波の被害から守れる保証もないし、過去の歴史をひもとけば、もし津波が来れば相当長い間水が引かないことも分かっている。国や地方の役所が仮設住宅を作ることを期待して待つよりも、自らが疎開先を選び、その地域との交流を深めていくという動きは非常に良いことだと思う。
寺村地区から雄大で美しい仁淀川を長い間眺めながら、そんなことを考えていた。

これからもこの清流・仁淀川が流域の人々を豊かにし、都市住民との交流が更に深まり、また流域の人々が地域の価値ある伝統文化を末永く継承されていくことを祈って、3日間の旅行の帰途に就くことにした。
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