なぜ討幕派が排仏思想と結びつき、歴史ある寺院や文化財が破壊されていったのか

高村光雲は上野の西郷隆盛像を制作した彫刻家で詩人の高村光太郎の父親でもあるのだが、仏師であった高村東雲の徒弟となったものの、明治維新以後は仏師としての仕事がなくなり、西洋美術を学んで日本の木彫技術の伝統を近代彫刻に繋げた人物だと評価されている。

その高村光雲が口述し、昭和4年に出版された『幕末維新懐古談』という本があり、平成7年に岩波文庫で再刊されている。残念ながらその岩波文庫も今では絶版になってしまったが、有難いことに青空文庫で全文を読むことが出来る。
その中に「神仏混淆(こんこう)廃止改革されたはなし」という文章があり、これを読めば、廃仏毀釈以前のお寺や神社がどのようであったか、だいたい見当がつく。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000270/files/45960_24248.html
「明治八年は私が二十三で年季が明けて、その明年私の二十四の時、その頃神仏混淆であった従来からの習慣(しきたり)が区別されることになった。
これまではいわゆる両部混同で何の神社でも御神体は幣帛(へいはく)を前に、その後ろには必ず仏像を安置し、天照皇大神は本地(ほんじ)大日如来、八幡大明神は本地阿弥陀如来、春日明神は本地釈迦如来というようになっており、いわゆる神仏混淆が行われていたのである。
この両部の説は宗教家が神を仏の範囲に入れて仏教宣伝の区域を拡大した一つの宗教政策であったように思われる。従来は何処の神社にも坊さんがおったものである。この僧侶別当(べっとう)と称(とな)え、神主の方はむしろ別当従属の地位にいて坊さんから傭(やと)われていたような有様であった。政府はこの弊を矯(た)めるがために神仏混淆を明らかに区別することにお布令(ふれ)を出し、神の地内(じない)にある仏は一切取り除(の)けることになりました。
そして、従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方どっちかに方附けなければならないことになったのである。これは日本全国にわたった大改革で、そのために従来別当と称して神様側に割り込んでいた僧侶の方は大手傷を受けました。奈良、京都など特に神社仏閣の多い土地ではこの問題の影響を受けることが一層甚(ひど)かったのですが、神主側からいうと、非常に利益なことであって、従来僧侶に従属した状態になっていたものがこの際神職独立の運命が拓(ひら)けて来たのですから、全く有難い。が、反対に坊さんの方は大いに困る次第である。
そこで、例を上げて見ると、鎌倉の鶴ヶ岡八幡に一切経(いっさいきょう)が古くから蔵されていたが、このお経も今度の法令によって八幡の境内には置くことが出来なくなって、他へ持ち出しました。一切経はお寺へ属すべきものであるからというのです。そこでこのお経は今浅草の浅草寺の所有になっております。」

鎌倉の鶴ヶ岡八幡の廃仏毀釈のことは以前このブログにも書いたが、昔の境内図にあった薬師堂や護摩堂や経堂や大塔が破壊されてしまった。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-74.html
高村光雲はこう纏めている。
「…神仏の混淆していたものが悉(ことごと)く区別され、神様は神様、仏様は仏様と筋を立て大変厳格になりました。これは、つまり、神社を保護して仏様の方を自然破壊するようなやり方でありましたから、さなきだに、今まで枝葉を押し拡(ひろ)げていた仏様側のいろいろなものは悉くこの際打(ぶ)ち毀(こわ)されて行きました。経巻などは大部なものであるから、川へ流すとか、原へ持って行って焼くとかいう風で、随分結構なものが滅茶々々(めちゃめちゃ)にされました。奈良や、京都などでは特にそれが甚(ひど)かった中に、あの興福寺の塔などが二束三文で売り物に出たけれども、誰も買い手がなかったというような滑稽こっけいな話がある位です。しかし当時は別に滑稽でも何んでもなく、時勢の急転した時代でありますから、何事につけても、こういう風で、それは自然の勢いであって、当然のこととして不思議と思うものもありませんでした。また今日でこそこういう際に、どうかしたらなど思うでしょうが当時は、誰もそれをどうする気も起らない。廃滅すべきものは物の善悪高下によらず滅茶々々になって行ったものである。これは今日ではちょっと想像に及びがたい位のものです。」

以前このブログでも書いたが、奈良の興福寺は明治5年に廃寺となって、明治14年に再び住職を置くことが認められるまでは無住の地であった。明治政府は現在国宝となっている五重塔を売却しようとし、五両で買った買い主は塔の金具を取ることが目的だったのでこれを火をつけて焼けおちるのを待って金具を拾おうと考えた。ところが、信仰の篤い付近の町家から猛烈な反対に会い、また類焼の危険があるという抗議が出たために中止されたことが『神仏分離資料』に残されているという。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html
仏師の修行を積んできた高村光雲にとっては、寺院が破壊され仏像が破壊されていくのを見ることはさぞ辛かったことと思うのだが、わさわざ文章の表題を「神仏混淆廃止改革されたはなし」として「改革」という言葉を入れておき、内容も文化破壊の実態を一般的な表現にとどめて、政府批判と受け取られないように言葉を選んで書いているようにも読める。
廃仏毀釈の実態を詳しく書いた記録で出版されているものはほとんどないし、一般的な史書には明治政府が関与したことが何も書かれていないのだが、関与があったことは間違いがない。つまるところ、いつの時代もどこの国でも、政権側にとって都合の悪いことは記録に残さないものであり、公式記録だけを読んでも真実は見えて来ないものなのだと理解するしかない。
廃仏毀釈で実際どのような事が起こったかは、ネットなどで調べて断片的にわかるのだが、ではなぜ、明治初期に仏教弾圧と仏教文化破壊が火を噴いたのだろうか。
前々回の記事で少し触れたのだが、儒教・仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうという平田篤胤(ひらたあつたね)の思想が、尊王倒幕運動から明治維新につながる思想的バックボーンとなったと言われている。しかし、この説明では肝心なことがよく解らない。なぜ反幕府勢力が、わが国の貴重な文化財破壊につながる思想に飛び付いたのだろうか。

この点について納得できる説明は、私が何度もこのブログで紹介した佐伯恵達氏の『廃仏毀釈百年』にある。ポイントになる部分を引用する。
「なぜ討幕と排仏論が結びついたかといえば、徳川幕府は家光の時、寛永十七年(1640)に宗教統制策をとり、国民をみんなどこかの寺院の檀家とさせるという『寺請(てらうけ)制度』を設立しました。それを登録する宗旨人別帳(しゅうしにんべつちょう)を作成し、宗門改め役がこれを検査しました。ここにおいては、諸大名も武士も名主も神主も町人も農民も、すべて仏教徒であったわけです。いわば寺院は区役所や市役所や町村役場的な存在であったのです。こうして徳川三百年の治安は保たれたのでした。『寺』という字は、もともと役所の意味を持っています。そこで討幕して民衆をにぎるためには、先ず寺院にある人別帳を押さえる必要があったのです。全国の寺院の人別帳を提出させることによって、幕府の財源なり生産力(農・工・商)を手に入れることができるのでした。そのために、幕府と一体になっている寺院をこわして人別帳を奪うことが、討幕派にとっては欠くことのできない必要条件でもあったのです。いうなればそれは、武力クーデターの先決条件であったといえます。
このような社会動乱の状勢に乗じたのが、国粋主義者としての平田篤胤です。彼はこの国粋主義によって、子弟多数をかかえ、その一派によって明治の仏教弾圧を決定的なものにしたのでした。」(『廃仏毀釈百年』p.55)
この文章を理解するために、江戸幕府の宗教政策をWikipediaの記事を参考に振り返っておく。
江戸幕府は慶長17年(1612)に禁教令を発布し、やがて民衆がキリシタンでないことを寺院に証明させる制度(寺請制度)を確立させ、寛永17年(1640)には幕府は宗門改め役を設置し、寛文4年(1664)には諸藩に宗門改制度と専任の役人を設置するよう命じて、次第に宗門改帳が各地で作成されるようになりこれが宗旨人別帳となる。寛文11年(1635)には武士・町民・農民など階級問わず民衆は原則として特定の仏教寺院に属することが義務づけられている。
当初はキリシタンの摘発が目的に整備された制度であったのだが、18世紀には宗教調査の意味合いが薄れて、宗旨人別帳が戸籍原簿や租税台帳の側面を強く持つようになっていったという。
この江戸幕府の施策は寺院にどういう影響を与えたか。Wikipediaにはこう書かれている。
「結果として仏教は幕府体制に取り込まれることとなり、やがて寺院は汚職の温床となって僧侶の世俗化などの問題を招く。明治になると尊皇思想の高まりや、神道国教化運動などによって神道優位の風潮が起こり、折からの仏教への批判は大きな物となっていき、やがて廃仏毀釈運動へと繋がっていく。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E9%96%80%E6%94%B9
いつの時代もどこの国でも権力と癒着した世界に腐敗は付き物だが、当時の仏教界の腐敗はWikipediaの記述の通りではなかったか。

岩波文庫に文化13年(1816)に武陽隠士が著した『世事見聞録』という本があり、その「三の巻 寺社人のこと」を読むと、当時の仏教界の腐敗した状況がいろいろ書かれていて興味深い。著者は最後にこう書いている。
「…さて仏神の道は人欲を治め人心を清くし、慈悲を元として国家を守護するものなり。しかるに今右の如く数百万人の寺社人等、国々在々に誇りて驕奢安逸を百姓の上に極め、武士の上に至り、また強欲・非道・法外・人外を世界第一に尽せり。誠に神仏を邪悪の棟梁となし、国家を邪悪に汚すものなり。早々改正ありたきものなり。かくの如く邪悪数百万人このままになし置きては、天道も仏神も捨て置き給ふまじ。必ず天下災害の基とならんか。…」(『世事見聞録』p.172)
とかなり辛辣である。どの程度の割合でそのような腐敗があったのか、今となっては知る由もないが、廃仏毀釈が起きてもおかしくない要因が寺院側に種々あったが故に、仏教などの影響を受ける以前の日本民族固有の精神に立ち返ろうとする平田篤胤の思想が広まり、その仏教排斥思想に討幕派が飛び付いたと考えれば良いのだろうか。
「大政奉還」と「王政復古」によって明治新政府が出来たと単純に考えていた時期が長かったのだが、よくよく考えると国家の生産力や財源を把握せずして新政府の政策決定が出来るはずがなく、長期安定的な政権運営も不可能だろう。しかし、そのために必要な台帳は幕府や諸藩ではなく、寺に存在したということは重要なポイントであったはずだ。新政府は、それを寺から奪い取ることが必要だったのだ。
さらに新政府は、寺院の所領の多くを没収して寺院の収益源まで奪い取り、歴史ある建物の補修にも協力することなく、むしろ多くを破壊したのである。有名な寺院の廃仏毀釈の事例は、次のURLにこのブログの記事を置いてあるので、覗いて頂ければ幸いである。
http://history.blogmura.com/tb_entry101772.html

歴史は勝者にとって都合よく書き換えられるものであることを、このブログで何度か書いてきた。廃仏毀釈は明治政府にとって都合の悪い史実であるために、いわゆる「通史」にはほとんど書かれていない。
たとえば『もう一度読む 山川の日本史』では
「政府ははじめ天皇中心の中央集権国家をつくるために神道による国民強化を図ろうとし、神仏分離令を発して神道を保護した。そのために一時全国にわたって廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた」(p.231)
と書かれているだけだが、この表現だと大多数の人は、廃仏毀釈は自然発生的に全国で起こったが、明治政府が意図したものではなかったし、規模も大きくなかったと理解することだろう。実態は「廃仏毀釈の嵐」が通り過ぎた後に、当時の寺院の約半数が廃寺になってしまったのだが、このような大事件であったことを誰も読み取ることが出来ないような教科書の叙述でいいのだろうか。
廃仏毀釈は明治政府にとっては都合の悪い史実なのかもしれないが、太平洋戦争敗戦によって何もかもが変わってしまった今の時代になっても、この史実を隠そうとする理由がどこにあるのか、私にはわからない。
我々の先人たちが、文化財を後世に残すことにどれだけ苦労してきたかをもっと伝えるべきではないのか。その先人たちの苦労が広く理解されずして、現在残されているわが国の文化財の貴重さをどうして伝えることができようか。
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