ハワイ国王を援けられなかった明治の日本~~GHQが封印した歴史4

それまでハワイ先住民は小さな部族に分かれていたが、ハワイ島のカメハメハがイギリスから武器や軍事顧問などの援助を受けて、マウイ島、オアフ島などの周辺の島々を征服して1795年にハワイ王国の建国を宣言し、18世紀末までにはカウアイ島、ニイハウ島を除く全地域を支配下におさめ、1810年にこの2島もカメハメハに服属して国家統一を成し遂げた。
カメハメハ2世の治世の1820年以降、米国から集団でやってきた宣教師たちが、独自の文字を持たなかったハワイ王国にローマ字のハワイ語聖書や教育と医療をもたらすことによって、瞬く間に文化的・宗教的にも席巻され、1840年には米国人宣教師主導による立憲君主体制が樹立され、以降欧米人(大部分がアメリカ人)がハオレ(白人)官僚として、ハワイ政府の中枢を独占し、ハワイ王朝の生殺与奪権を掌握するに至ったという。
1848年には土地法が制定され、1850年に外国人による土地の私有が認められると、対外債務を抱えていたハワイ政府が.土地の売却で負債を補ったり、宣教師が土地所有観念のない島民から土地を寄進させるなどして、国王領以外のハワイ諸島土地の多くがハオレの所有地となり、また議会もハオレが多数を占めていたという。
一方ハワイでは白人がもたらした病気の影響などにより、人口が百年間に30万人が5万人に激減していた。

このままでは国がアメリカに併呑されることを怖れた7代目の国王カラカウアが、1881年(明治14年)に国際親善訪問の旅に出た。この旅行で国王が一番感動したのが、明治維新からまだ14年しかたっていない日本だったそうだ。上の画像は、一行が来日した時に撮影されたものである。
国王は明治14年の3月に横浜に上陸し、翌日横浜駅から特別列車で新橋駅に着き、そこから赤坂離宮に向かうのだが、横浜港も鉄道も日本人が仕切っていることに驚いたという。 例えばインドでは、鉄道輸送から徴税、税関業務までが英国が独占し、インド綿には英国で高額な輸入税がかけられ、一方英国綿製品は関税なしでインドに輸入されて、インドの綿工業は全滅した。イランでは、郵政や電信電話は英国、カスピ海航路はロシア、税関がベルギー、銀行は英国とロシア…という具合で、自国民が重要施設を仕切っている国は欧米以外の国ではほとんどなかったのが現実だった。

3月11日、日本を訪れていたカラカウア王は随員の米国人には一言も知らせずに、一人で極秘に明治天皇に会見を申し入れたという。この会見の内容は驚くべきものであった。 この時のカラカウア王の言葉が明治天皇の公式記録である『明治天皇紀』に残されている。
「今次巡遊の主旨は、多年希望する所の亞細亞諸國の聯盟を起こさんとするに在り。歐州諸國は只利己を以て主義と為し、他國の不利、他人の困難を顧みることなし、而して其の東洋諸國に対する政略に於いては、諸國能(よ)く聯合し能く共同す、然(しか)るに東洋諸國は互いに孤立して相援(たす)けず、又歐州諸國に対する政略を有せず、今日東洋諸國が其の権益を歐州諸國に占有せらるる所以は一に此に存す、されば東洋諸國の急務は、聯合同盟して東洋の大局を維持し、以て歐州諸國に対峙するに在り、而して今や其の時方(まさ)に到来せり…(中略)
今次の旅行、清國、暹羅(シャム)、印度、波斯(ペルシャ)等の君主にも面会して、具(つぶさ)に聯盟の利害得失を辨説せんと欲す、然れども、弊邦[ハワイ]は蕞爾(さいじ:小さい)たる島嶼(とうよ)にして人口亦(また)僅少なれば、大策を企畫するの力なし。然るに貴國は、聞知する所に違わず、其の進歩実に驚くべきのみならず、人民多くして其の気象亦勇敢なり、故に亞細亞諸國の聯盟を起こさんとせば、陛下進みて之が盟主たらざるべからず、予は陛下に臣事して大に力を致さん…」
(『明治天皇記』第五 : 勝岡寛次「抹殺された大東亜戦争」p.170所収)
カラカウア王は明治天皇に対して、西洋諸国の侵略に対して東洋諸国が団結する必要がある。ひいては明治天皇には「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」になって欲しいと嘆願したというのだ。
この提案に対する明治天皇の回答も続けて記録されている。

「歐亞の大勢實に貴説の如し、又東洋諸国の聯合に就きても所見を同じくす。(中略)然れども、我が邦の進歩も外見のごとくにはあらず、殊(こと)に清國とは葛藤を生ずること多く、彼は常に我が邦を以て征略の意圖(いと)ありと爲す、既に清國との和好をも全くすること難し、貴説を遂行するが如きは更に難事に屬す、尚閣臣等に諮り、熟考して答ふべし…」

さらにカラカウア王は、この時に日本人の移民を要請され、さらに姪であるカイウラニ王女に皇族山階宮定麿王(のちの東伏見宮依仁親王)を迎えて国王の後継者としたいとの提案もあったという。当時山階宮定麿王は13歳、カイウラニは5歳で、ハワイ王室と日本の皇室とを結び付きを強くして、ハワイ王国を存続したいと考えての発言であった。下の画像は成人となったカイウラニ王女であるが、なかなかの美人である。

この会見内容は国家的重要事であるので、明治天皇の御指示により、ハワイから来た随行員にも伝えられた。
カラカウア王が世界一周旅行から帰国したのちに取り組んだのは、米国宣教師が否定した神話・伝説の復活であり、ハワイ正史の編纂事業だった。また宣教師によって禁止されていたフラダンス*を復活させ、自らもハワイ国家をはじめたくさんの民族音楽を作詞作曲したという。
*フラは神を意味し、フラダンスは神にささげる神聖な舞踏で、男の踊りであった。
こうした動きが、米国を刺戟する。
同じ年の1881年(明治14年)12月に米国国務長官ブレーンが、ハワイ公司にあてて次のような訓令を発信していることが、戦後GHQに焚書処分された吉森實行氏の『ハワイを繞る日米関係史』という本に紹介されている。
「ハワイはその位置から見て北太平洋における軍事上樞要の地點を占めているから、同島の占領は全くアメリカ國策上の問題である。(中略)
最近ハワイの人口は激減を来し…減退の一途をたどつていることは、ハワイ政府の一大憂患たることは疑へない。(これが解決策としてアジア人をもつてハワイ人に代へ、…かかる方策を用ひて)ハワイをアジア的制度に結合しようとするのは出来ない相談だ。もし自立することが出来なければ、ハワイはアメリカの制度に同化すべきものであつて、それは自然法並びに政治的必要の命ずるものである。」(勝岡寛次『抹殺された大東亜戦争』p.173に所収)
と、アメリカは自国の国益上に有益な場所にある国は、国策上占領すべきだという勝手な考え方なのである。
翌明治15年2月(1883)に明治政府はハワイに特使を派遣し、「亜細亜諸国の聯盟」の「盟主」となることと婚姻の申し出については丁重に謝絶した。しかし、移民の申し出に関しては明治17年(1885)には946名を送ったのを皮切りに、日本人移民は続々とハワイに渡航し、20世紀初頭にはハワイ人口の4割を日本人が占めるようになったという。
アメリカは反撃に転じ、1887年に、王権の制限・弱体化を目的とした新憲法を米国側で起草し、ハオレ(白人)の私設部隊である「ホノルル・ライフル」を決起させ、武力で威嚇してカラカウア王に迫り強制的に調印させた。この憲法は別名「ベイオネット(銃剣)憲法」とも呼ばれているそうだが、この内容がどんなにひどいかは読めばすぐにわかる。
「ハワイ國の臣民にして年齢二十一歳に達し、ハワイ語・英語若(もし)くは他のヨーロッパ諸国語を讀み、書き、算數を會得し、少なくも三ケ年間國内に居住し、竝(ならび)に五〇〇ドル以上の財産を國内に有し、或は一ケ年少なくも二五〇ドルの所得を有するハワイ・アリカ若しくはヨーロッパ人種たる男子にあらざれば代議士に選挙せらるることを得ず(第六一條)」
と、これでは貧しいハワイ人やアジアからの移民には被選挙権がない。
選挙権についてはこう書かれている。
「ハワイ國に居住するハワイ・アメリカ若(もし)くはヨーロツパ人種の男子にして國法遵守を宣言し、國税を納め、年齢二十一歳に達し、選擧日に際して1ヶ年國内に居住し、ハワイ語・英語若くは他のヨーロッパ諸國語を讀み、書き、法律の規定に従つて選擧人名簿にその氏名を登録せられた者は、代議士を選擧する權利を有す(第六二條)」
先程紹介した吉森實行氏の著書『ハワイを繞る日米関係史』にはこうコメントされている。
「…白人はハワイに歸化(きか)しなくても國法遵守を宣言しさへすれば参政權を享有し得る一方、有色人種の参政權を拒否したもので、早くもアジア移民の増加に猜疑(さいぎ)の眼を光らせたアメリカ意志を反映したものであつた。原住民は勿論、當時(とうじ)すでに千を超えていたわが移民(説明:日本移民)は大いに激昂し、ハワイ駐在の日本總領事安藤太郎は外務大臣(説明:井上薫)の訓令を仰いで大いに抗議せんとしたが、歐米追従をもつて聞こえる井上薫がこれを許さなかつたのは當然である。
かくてハワイの政治はいよいよアメリカの左右するところとなつたが、その経済もまたアメリカの政策にたへず繰(あやつ)られてゐた。」(西尾幹二『GHQ焚書図書開封5』p.46-47)
選挙権が与えられる人種のなかに日本人が入っていないということは、帰化してハワイ国籍を取得していても日本人移民には選挙権を与えられなかったということである。
この憲法の問題点は選挙権・被選挙権だけではない。国王の閣僚罷免権が剥奪されるなど、国王の国政の関与を一切否定する内容が書かれていたようだ。

しかし、この時に何故外務大臣の井上薫はアメリカに抗議しなかったのであろうか。今の外務省も欧米追従の傾向が強いが、長いものには巻かれろと言う考え方が当時から強かったのだろうか。
もしハワイがアメリカに併呑されれば、太平洋は広いとはいえ隣の国はわが国である。次は日本が危ないという発想はなかったのだろうか。
ところで、国王の世界一周旅行に随行したアメリカ人のアームストロング自身が、もし日本がカラカウア王の提案を受け入れていたとすれば、ハワイは日本のものとなっていたと書いている。
「われわれ国王の側近者は、その後[世界一周旅行の後]の王の行動に深き注意を払うやうになつた。国王の計画が日本天皇陛下によつて御嘉納になつていたらハワイは日本領土となる経路をとるに至ったであろう。」(西尾幹二 同上書 p.39)

わが国がハワイを国土とすることはなかったとしても、山階宮定麿王がハワイ王女と結婚し、わが国がハワイを側面で支援していれば、ハワイにあのような屈辱的な憲法を結ばせることはまずなかっただろう。またあの憲法がなければ、ハワイがアメリカに併呑されることもなかったのではないだろうか。
もしハワイ王国が独立国として20世紀に入っても存続していれば、71年前にわが国がアメリカと戦うことにならなかったことは大いにあり得ると思うのだ。
もっとも明治14年(1881)と言えば、国会開設運動が興隆するなかで政府はいつ立憲体制に移行するかで、漸進的な伊藤博文・井上馨がやや急進的な大隈重信を追い出した政変劇のあった時期でもあり、内政問題を抱えながらアメリカを敵に回すような施策は財政面からみても難しかったとも思われる。
しかしカラカウア王に憲法をごり押ししてからのアメリカは、露骨にハワイ王国を奪い取りに行っている。政治も経済も情報も白人に握られてしまえば、抵抗することは難しくなるばかりだった。

カラカウア王が神官たちを集めて王宮の扉を閉ざし古代伝承を記録させていたことを、実は女たちを交へての酒池肉林に耽(ふけ)っていたという噂が白人によってまことしやかに流され、晩年の王は白人たちによって「奇行の王」と渾名(あだな)されてしまう。
アメリカ人により貶められ国政に対する権限を奪われたカラカウア王は、失意と孤独の内に1891年1月病死してしまい、その志を継いだ妹のリリウオカラニ女王が即位することになるのだが、これから後いかにひどいやり方でアメリカに国が奪われたかを書きだすと随分文章が長くなるので、次回に続きを書くことにしたい。
アメリカにより憲法を押し付けられ、国王家の弱体化を仕掛けられた国である点については、わが国はハワイ王国とよく似ている。
ハワイ王国は外国人に選挙権を与えることによって滅んだのであるが、なんとなくわが国はその方向に進んではいないか。
この頃にハワイ王国で起こったことを日本人はもっと知るべきだと思う。
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