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野球の殿堂入りした正岡子規の野球への愛情と奈良の旅行

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Category明治時代
以前、このブログで正岡子規俳句を紹介したことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-76.html

「秋風や 囲いもなしに 興福寺」

阿修羅像で有名な奈良の興福寺は、明治の廃仏毀釈の時に僧侶130人が春日神社の神官となり、明治5年には廃寺となり、明治14年に再び住職を置くことが認められるまで無住の地であったのだ。当時の奈良県知事が興福寺の土塀は「往来の妨げになる」との理由ですべて撤去させたという経緯を知らなければ、この句の理解はとてもできないだろうということを書いた。

正岡子規肖像

正岡子規は明治28年(1895)10月26~29日に奈良を訪れて、他にも当時の奈良を書いた句を多く残している。子規が残した俳句は、次のURLで紹介されている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_index.html

明治28年の秋の作品をいろいろ読んでいくと、
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」は教科書にも出てくる有名な句だが、

「秋風や 奈良の仏に 札がつく」
「行く秋や 奈良の小店の 古仏」

というような奈良の廃仏毀釈を知らなければとても理解できない句がいくつか掲載されている。子規が奈良を旅行した頃は、廃仏毀釈で廃寺となった寺の仏像があちこちの古美術商で売られていたような時代であったことが見えてくる。

「柿食えば…」の法隆寺の句も、正岡子規訪れる数年前の法隆寺は相当荒れていたはずで、ようやく古美術の保存に関する関心が高まってきて明治26年頃から堂宇の修繕が国庫の補助金を得て着手されたばかりであった。

句の中に地名が書かれていないのでよくわからないが、これも廃仏毀釈の傷痕を見て作った句なのだろうか。

「堂崩れて 地蔵残りぬ 草の花」
「明き寺や 取り乱したる 萩の花」

廃仏毀釈の話題はこれくらいにして、次に別の視点から子規の生涯を振り返ってみよう。

最近知ったことなのだが、正岡子規は平成14年(2002)1月に「野球の殿堂」の新世紀特別表彰として加えられている。長い間闘病生活をした子規がなぜなのだと興味を覚えたので、奈良に旅行した経緯もふくめて少し調べてみた。

正岡子規は慶応3年(1867)に、伊予松山藩士正岡隼太の長男として生まれ、幼名は升(のぼる)といった。

正岡子規学生服

政治家を志して明治16年(1883)、17歳の時に松山中学を中退して上京し、秋山真之と共に東京大学予備門を目指して翌年に合格してから、明治18年(1885)に俳句を作り始め、明治19年(1886)ごろからベースボールに熱中し、子規の随筆「筆まかせ」には明治23年(1890)に3月に上野公園博物館横空き地で試合を行ったことが記されており、その時のポジションは捕手だったそうだ。

そもそも「野球」は明治4年(1871)に来日した米国人ホーレス・ウィルソンが東京開成学校予科(現在の東京大学の前身)で教えたと言われているが、正岡子規がベースボールを始めた頃はこのスポーツを知る人は少なく、守備位置やルールなどは英語のままで使っていたようである。これを子規が日本語に翻訳したそうである。

正岡子規と野球

子規が訳した野球用語のうち「直球」「打者」「走者」「死球」「飛球」は今も使われているが、使われなくなったものも少なくない。次のURLで子規が翻訳した野球用語が紹介されているが、ピッチャーを「投者」、キャッチャーを「攫者」、バットを「棒」、ベースを「基」等と呼ぶのは面白い。
http://www.sakanouenokumo.jp/shiki/baseball.html

ネットでいろいろ調べると子規がベースボールを解説している明治29年の新聞記事が見つかった。この文章の中に、子規の考えた野球用語の翻訳が出ている。
http://www.webmtabi.jp/200803/haiku/matsuyama_masaokashiki_baseball.html

上記の新聞記事の最後に子規が「ベースボール未だかつて譯語あらず」と書いているように、ベースボールをはじめて「野球」と翻訳したのは正岡子規ではなかった。

180px-Kanae_Chuman.jpg

「野球」という訳語を初めて使ったのは第一高等中学で「ベースボール部」の選手として活躍した、鹿児島県出身の中馬庚(ちゅうまんかなえ:上の画像)で、第一高等中学を卒業する際にベースボール部の部史執筆を依頼されて、明治27年(1894)にベースボールを「野球」と命名したのが最初だそうだ。この中馬庚は、子規よりも速く昭和45年(1970)に野球の殿堂入りを果たしている。

しかし、実は「野球」という言葉を考案したのは中馬庚よりも正岡子規の方が4年も早かった。正岡子規は明治23年(1890)に、「野球」をベースボールの訳語としてではなく自分の雅号として用い、幼名の「のぼる」にちなんで「野球(のボール)」と読ませたそうだ。よほど子規はベースボールが好きだったようだ。

正岡子規は明治22年(1889)に初めて喀血をして以降、療養が続いて落第を繰り返し、明治25年(1892)に東京帝国大学を退学している。
その後新聞社に入社し、肺結核を患いながら日清戦争の従軍記者として中国に赴くも、船中の喀血で瀕死の状態となり、治療の後しばらく故郷松山に戻っている。

次のURLに子規の年表がまとめられているが、ここには奈良の旅行の事は記されていない。しかし奈良に旅行した日が明治28年(1895)10月26~29日であることはわかっているので、子規が奈良に訪れたのは、松山から上京する途中で立ち寄ったということになる。
http://www2a.biglobe.ne.jp/~kimura/siki01.htm

それ以降子規は7年にわたり闘病生活を過ごしており、奈良の旅は子規にとって人生最後の旅行となったそうだ。子規の観た当時の奈良は、私の知る限り廃仏毀釈で相当荒れた状態であり、のんびりと古刹を巡って昔を偲ぶようなものではなかったのではないか。

東京に戻り、病魔と闘いながらも子規は多くの作品を残しているが、明治29年(1896)の句のなかに、ベースボールを題材にしたものを見つけてしまった。

「若草や 子供集まりて 毬を打つ」
「草茂み ベースボールの 道白し」 

子規の野球に対する熱い情熱が伝わって来る。子規はもっと健康な体でいて、もっともっと野球がしたかったのだろうと思う。
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