多くの朝鮮民衆が味方し勝ち進んだ秀吉軍~~朝鮮出兵2
秀吉の朝鮮出兵については日本のみならず李氏朝鮮や明国にも記録が残されており、「文禄の役」の戦の経緯は次のサイトでコンパクトに纏められている通りで、日本軍は連戦連勝で平壌まで進んでいる。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-4/ad1592a.htm
朝鮮出兵については、山川の日本史をはじめ多くの教科書には「朝鮮民衆の激しい抵抗にあって苦戦した」と簡単に書いているのだが、それならばなぜ簡単に日本軍が平壌まで進む事が出来たのか。

まず、日本軍が上陸した釜山(プサン)では4月13日の早朝に攻撃開始後数時間で日本軍は釜山城に攻め入って勝利している。
日本軍が短時間で勝利した理由は簡単だ。日本軍は大量の鉄砲があったが朝鮮軍は鉄砲を持っておらず、刀も槍も弓矢も性能は日本の武器の方がはるかに優秀だったからだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E5%B1%B1%E9%8E%AE%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
日本軍が釜山を橋頭保として北の漢城(ソウル)に軍を進めて行くためには、釜山から数キロ北にの東菜城を陥落させる必要があった。翌4月14日早朝に戦闘開始し、この戦いでは朝鮮軍は奮戦し8時間持ちこたえるのだが兵器の差で日本軍が勝利し、北から現地に向かっていた慶尚道の全軍の指揮官らは、その報を聞いて逃げたという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E8%8E%B1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

その後、4月24日に「尚州の戦い」、4月28日に「弾琴台の戦い」があり、いずれも日本軍が簡単に勝利し、5月3日には現在のソウルである首都・韓城が陥落する。
韓城では戦いらしい戦いはなく、小西行長らの一番隊が漢城に到着した時には、守備隊は誰もいなかったという。前日に宣祖王は平壌に向かって逃亡していたのだ。
Wikipediaにはこう書かれている。
「…漢城は既に一部(例えば、奴婢の記録を保存していた掌隷院や、武器庫など)が略奪・放火されており、住民もおらず放棄されていた。漢江防衛の任に当たっていた金命元将軍は退却した。王の家臣たちは王室の畜舎にいた家畜を盗んで、王よりも先に逃亡した。全ての村々で、王の一行は住民たちと出会ったが、住民たちは王が民を見捨てて逃げることを悲しみ、王を迎える礼法を守らなかった。
また、明の朝鮮支援軍が駆けつけると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、日本軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢は、日本軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った…」。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
当時の李氏朝鮮は両班(ヤンパン)を最上位とする強固な身分制社会で、全人口の三割から五割は奴婢 (ぬひ、奴隷の一種) 身分だったと言われている。「宣祖実録」によると、このとき朝鮮の民衆は朝鮮政府を見限り、日本軍に協力する者が続出したというのだ。
「宣祖実録」は宣祖帝の時代の出来事の李氏朝鮮国の公式記録だが、原文で良く引用されるのが宣祖帝が漢城を脱出するところの記述である。(下の画像のピンク部分)

「人心怨叛,與倭同心」(人心は怨み叛き、倭に同調するのみ)
「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」(我が民は言った「倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要があるのか?」)
したがって、日本軍が漢城に進駐しても「京中の市民、安居して移ら」なかったばかりか、朝鮮の王である宣祖が「賊兵の数はどうか。半ば是我国の人と言うが、然るか」と尹斗壽に尋ねたように、日本軍には朝鮮の民衆が半分近く含まれていたのである。
http://ccce.web.fc2.com/rekisi1.htm#karairi
韓国の教科書には「(日本軍侵略の為に)文化財の被害も大きかった。景福宮が焼け、実録を保管した書庫が消失した」と書かれているそうだが、史実は朝鮮の民が景福宮等に火をつけたものであり、秀吉の軍隊が漢城に入る前には既にそれらの建物は焼け落ちていたのだ。
多くの民衆が国王に対し、国民のことを顧みずもっぱら後宮を富ませたと罵声をとばし、石を投げたという記録もあるそうだ。
日本軍は、朝鮮軍からの抵抗をあまり受けることなく北進を続け、6月15日には平壌が陥落した。日本軍より先に漢城から平壌に逃亡した宣祖王は、平壌に日本軍が迫ると再び逃亡し、冊封に基づいて明国(中国)に救援を要請。小西行長らの一番隊は和平交渉を模索して平壌で北進を停止した。
7月16日に明軍の援軍が平壌に到着するが、日本軍はこれを撃退する。

加藤清正らの二番隊が進んだ咸鏡道(半島の北東部)については『(道内)各地の土兵・土豪は役人を捕らえて降る。日本兵は刀剣を使わず』に快進撃したという記録があるそうだ。
人々は日本軍の侵入前に、咸鏡道観察使(知事)柳永立・兵使(軍司令官)李渾さえも捕らえて一気に惨殺してしまい、この結果、咸鏡北道明川以北の八城市は従来の政府役人に代わって、日本軍の庇護のもとに蜂起した民衆が首長となったという。
という具合で、上陸した日本軍は各地で勝利し全羅道を除く全土を早い時期に制圧したのだ。
しかし日本軍の弱点は船にあった。
日本の船の底は平らで、帆を一本かけるだけだから順風でないとロクに使えなかったし、船も小さかった。

一方朝鮮の船は李舜臣(りしゅんしん)が考案した亀の形をした有名な「亀甲船(きっこうせん)」といわれる大きな船で、日本軍の船よりも安定感があり、船体の上部に槍や刀を上向きに植えこんでいたので、日本軍が乗り移って戦うことが困難な構造になっていた。
朝鮮の船は戦うことを前提にした船であるのに対し、日本の船は輸送船団に武士を乗せたようなものだ。
海の戦いでは日本軍は劣勢が続き、全羅道から北上することが出来なくなって、そのために前線に充分な武器や食糧が運べなかったのだ。

日本軍は陸戦では勝ち進んで平壌まで来たが、これから先、明国に進もうにもまともな道路がないし、一方で兵糧は不足する。日本の船は来ないし寒さは厳しくなるばかり。ゲリラも現れ、疫病にも苦しめられたという。これでは日本軍の士気は上がらない。
文禄二年一月八日、李如松(りじょしょう)率いる明軍が平壌に総攻撃を仕掛けてきた。明軍は城の食糧庫に火を放ち、そうなると日本軍ももう長くは戦えない。日本軍は大同江を渡って逃げたが、明兵も朝鮮兵もそれ以上は追ってこなかったという。この平壌の戦いが、陸における日本軍の唯一の敗戦と考えてよい。
明がこの時の戦果を調べさせたところ、李如松が平壌でとった首の半ばは朝鮮人だったという報告があるそうだ。多くの朝鮮民衆が日本軍に加担していたことは確実なのである。
日本軍は一旦漢城に戻って体制を立て直す。補給に問題があるので籠城戦を避け、碧蹄館(へきていかん)で再び明軍と戦い日本軍は大勝し、明軍の李如松は命からがら逃走したという。
文禄二年の三月に漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれてしまい、窮した日本軍は講和交渉を開始する。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣し、小西行長・加藤清正の三者で会談を行い、4月18日に日本軍は漢城より釜山へ退却した。
しかし、秀吉には明が降伏したと言い、明朝廷には日本が降伏したと言って双方の講和担当者がそれぞれ偽りの報告したため、両国とも受け入れられない講和条件を要求してきたが、日本側の交渉担当の小西行長と小西如安は偽りの降伏文書を作製して戦争を終結させてしまう。
文禄五年(1596)9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられておらず、自分が明の臣下の扱いであることを知り激怒する。秀吉は明の使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定したというのが、文禄の役の流れである。
このような史実を知ると、第二次世界大戦の日本軍がマレー半島からシンガポールに進み、ジャワやラングーンを電光石火で陥落させたが補給を軽視して失敗した歴史を思い出す人が少なくないだろう。
歴史に学ばない国民は、何度も同じ過ちを繰り返すということなのか。
また当時の記録などを読めば読むほど、わが国で流布している教科書の「明の援軍や朝鮮民衆のはげしい抵抗にあって苦戦を強いられた(山川日本史)」という記述がばかばかしくなって来る。なぜ日本の教科書は朝鮮人口の多くが奴婢身分であり、民衆の多くが日本軍に加勢したという史実を書かないのか。
この朝鮮出兵で多くの朝鮮の陶工が捕虜として日本軍に連行されたとよく言われるのだが、彼等にとっては自国に残っても奴隷(奴婢)の過酷な暮らしが待っているだけではなかったのか。日本で技能者として優遇されるのであれば、日本での暮らしを望んだ人が多くいても不思議ではないのだ。
秀吉の朝鮮出兵が終わって60年程度あとに、船が難破して李氏朝鮮に流れ着き1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていたオランダ人のヘンドリック・ハメルは「朝鮮幽囚記」(平凡社東洋文庫)に、こう記述しているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%A1%E3%83%AB
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷とみなされるからです。…」
秀吉の朝鮮出兵の後も、李氏朝鮮には相変わらずの身分制度が相当強固に残されていた国だったのだ。
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https://shibayan1954.blog.fc2.com/blog-entry-626.html
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