一乗谷遺跡、永平寺から越前竹人形の里へ~~越前カニ旅行一日目その1
毎年カニのシーズンに旅行していることは何度かこのブログに書いた。今年は越前のカニを求めて芦原温泉に宿泊することとし、福井県の名所旧跡などを巡る計画をたてて、11/27~28にかけて旅行をしてきた。
27日の朝に自宅を出て、最初に訪れたのが「一乗谷朝倉氏遺跡」。

パンフレットによると、「朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、一乗谷に本拠を移し、斯波氏や甲斐氏を追放して越前を平定した。」とあるが、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」によると、朝倉氏は南北朝時代にはすでに一乗谷を本拠にしていたようである。
その頃の京都は応仁の乱で荒廃しており、多くの公家や高僧、文人たちがこの一乗谷に避難してきたために、この一乗谷は発展し「北ノ京」とも呼ばれたそうだ。
朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期の人口は一万人を超えたと言われている。
しかしながら、朝倉氏は天正元年(1573)の刀禰坂の戦いで織田信長に敗れこの一乗谷を放棄して大野に逃れたのち、信長の軍勢はこの一乗谷に火を放ち、城下町は灰燼に帰してしまう。
その後信長から越前八郡を与えられた柴田勝家は、本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄(現在の福井市)に構えたために、辺境となった一乗谷は次第に田畑の下に埋もれていったそうだ。
以前は朝倉館前の唐門や山沿いの庭園跡が見えるだけだったのだが、昭和42年から遺跡の発掘が始まり、調査が本格化したのは翌年かららしい。
はじめの頃はめぼしい遺構は発見されなかったのだが、1mほど掘り下げると堆積土の中から礎石が顔を出し、それから発掘調査が一気に進行したとのことだ。
ところが、その頃この近辺は農業構造改善事業による水田の区画整理や造成工事が始まっており、計画では遺跡のかなりの部分が破壊されるところであったようだ。郷土史家や井上鋭夫教授、青園謙三郎氏等が県当局に強く陳情し、間一髪のところでこの遺跡が守られたとのことである。
地元の人が水田や畑地を国に売り払い、昭和46年(1971)に遺跡全体の278haが国の特別史跡に指定されて以降さらに発掘調査が進められ、平成7年には調査に基づき当時の町並みが200mにわたり復元されている。

上の写真は遺跡から復元町並を眺めたものだが、遺跡の規模があまりにも大きくて、復元された部分が随分小さく感じてしまった。

一乗谷川を橋で渡ると、朝倉館跡正面の堀に面して唐門が建っている。こんな場所に門があるので、てっきり朝倉家の門が今も残っているように錯覚したのだが、自宅に帰ってから調べると、朝倉氏の遺構ではなく後に建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたもので、現存の門は江戸時代中期に再建されたものだそうだ。

唐門を抜けると朝倉家第五代当主の義景が住んだ館の跡があり、建物の礎石や庭園が残されている。三方は土塁と濠で囲まれており広さは6500㎡程あるという。
他にも庭園跡がいろいろ残っていて特別名勝にも指定されているのだが、時間があまりないので省略して次の観光地である永平寺を目指す。
寛元2年(1244)、道元禅師によって建てられた「傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)」が永平寺の開創にあたり、寛元4年(1246)に山号寺号を「吉祥山永平寺」と改められた。
寺号の由来は、中国で初めて仏法が伝えられた後漢の明帝の時の元号「永平」からで、意味は「永久の平和」ということだそうだ。
その後暦応3年(1340)に兵火で伽藍が焼失したほか、何度か火災にあい、現存の諸堂はすべて近世以降のもので、主な建物では山門(寛延2年[1749])、法堂(はっとう:天保14年築[1843])以外は明治以降のものである。

上の写真は最初に見学する傘松閣(さんしょうかく)の156畳敷きの大広間。天井には昭和初期の画家による絵が描かれている。そこから、僧堂(明治35年築)、仏殿(明治35年築)、法堂、大庫院(昭和5年築)、山門等を見て廻るのだがとにかく広く、これらの建物が回廊でつながっていて、ずっとスリッパを履いて見学していく。

永平寺の紅葉を少し期待していたのだが、もともと楓などはあまり植えられていないようで、圧倒的に杉等の針葉樹が多く、時おり色づいた葉を見ることが出来る程度だった。

鬱蒼と茂る老杉の奥にある唐門。永平寺の写真で必ず出てくる有名な場所なのだが、残念ながらここは観光客には公開されていなかった。
永平寺の近くで駐車させていただいたお店で土産に団助の「ごま豆腐」を買った後、次の観光地である「越前竹人形の里」を目指す。

何年前か忘れてしまったが初めて越前竹人形の写真を見た時に、竹細工でこんな人形が作れるのかと驚いたことがあるのだが、ここでは竹細工職人たちの手技を見学することが出来る。ここが工房の入口である。

中では竹人形制作の実演をしていた。竹の節から節までの部分を縦に細かく割っていき、1mm程度の細さのものを更に4分割して人形の髪の毛などに使うそうだ。この作業だけでも大変だと思うのだが、この繊維を小さな人形の頭部に2000本以上植えていくのだそうだが、気の遠くなるような作業だ。
作業だけではない。それぞれ形が違いまた加工の難しい竹の曲面や節をどう組み合わせてどう活かし、どんな作品に仕上げるかはいくら手先が器用でも簡単な事ではないだろう。

越前竹人形の歴史はそれほど古いものではなく、もともとは昭和27年に師田保隆さんと弟・米長三四郎さんが農閑期に竹製の花額を作っていたのを、余りの竹を使って人形が作れないかと試作研究して、いくつかの人形を作ったのが始まりだそうだ。それが、評判を得て次第に大きな人形を作るようになり、全国的な賞を多数受賞して越前竹人形は福井県の新しい伝統工芸品として認知されるようになり、今では海外にも販売されているのである。

創作竹人形展示館「黎明」には素晴らしい作品が展示されているので必見だ。どこにでもある竹が、こんな姿に生まれ変わることが奇跡のように思えて、小さな人形を見ながら飽きることがない。
二人の兄弟が素晴らしい仕事をし、師田保隆氏の長男の師田黎明氏が芸術性を高めていった。その努力が実を結び、地元に大きな職人の工房や販売所や食堂が出来て、地元の方が働ける職場もできた。そのエネルギーを今多くの地方が失ってしまっている。
竹の素材を活かしながら、匠の指先が人形に命を吹き込んでいく職人の世界。
何もかもが機械化されて職人の世界が消えていく中で、福井の山里で人形作りの新たな職人が生まれ育っていることに感動を覚えた。ひたすら人形と向き合い誇りを持って働く職人を見て、少し元気をもらったような気がした。
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27日の朝に自宅を出て、最初に訪れたのが「一乗谷朝倉氏遺跡」。

パンフレットによると、「朝倉氏は現在の兵庫県養父市八鹿町の豪族で、南北朝時代に朝倉広景が主家の斯波高経に従って越前に入国しました。朝倉孝景の代、1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに、一乗谷に本拠を移し、斯波氏や甲斐氏を追放して越前を平定した。」とあるが、「朝倉家伝記」や「朝倉家記」によると、朝倉氏は南北朝時代にはすでに一乗谷を本拠にしていたようである。
その頃の京都は応仁の乱で荒廃しており、多くの公家や高僧、文人たちがこの一乗谷に避難してきたために、この一乗谷は発展し「北ノ京」とも呼ばれたそうだ。
朝倉孝景の頃から全盛期を迎え、最盛期の人口は一万人を超えたと言われている。
しかしながら、朝倉氏は天正元年(1573)の刀禰坂の戦いで織田信長に敗れこの一乗谷を放棄して大野に逃れたのち、信長の軍勢はこの一乗谷に火を放ち、城下町は灰燼に帰してしまう。
その後信長から越前八郡を与えられた柴田勝家は、本拠地を水運・陸運に便利な北ノ庄(現在の福井市)に構えたために、辺境となった一乗谷は次第に田畑の下に埋もれていったそうだ。
以前は朝倉館前の唐門や山沿いの庭園跡が見えるだけだったのだが、昭和42年から遺跡の発掘が始まり、調査が本格化したのは翌年かららしい。
はじめの頃はめぼしい遺構は発見されなかったのだが、1mほど掘り下げると堆積土の中から礎石が顔を出し、それから発掘調査が一気に進行したとのことだ。
ところが、その頃この近辺は農業構造改善事業による水田の区画整理や造成工事が始まっており、計画では遺跡のかなりの部分が破壊されるところであったようだ。郷土史家や井上鋭夫教授、青園謙三郎氏等が県当局に強く陳情し、間一髪のところでこの遺跡が守られたとのことである。
地元の人が水田や畑地を国に売り払い、昭和46年(1971)に遺跡全体の278haが国の特別史跡に指定されて以降さらに発掘調査が進められ、平成7年には調査に基づき当時の町並みが200mにわたり復元されている。

上の写真は遺跡から復元町並を眺めたものだが、遺跡の規模があまりにも大きくて、復元された部分が随分小さく感じてしまった。

一乗谷川を橋で渡ると、朝倉館跡正面の堀に面して唐門が建っている。こんな場所に門があるので、てっきり朝倉家の門が今も残っているように錯覚したのだが、自宅に帰ってから調べると、朝倉氏の遺構ではなく後に建てられていた松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたもので、現存の門は江戸時代中期に再建されたものだそうだ。

唐門を抜けると朝倉家第五代当主の義景が住んだ館の跡があり、建物の礎石や庭園が残されている。三方は土塁と濠で囲まれており広さは6500㎡程あるという。
他にも庭園跡がいろいろ残っていて特別名勝にも指定されているのだが、時間があまりないので省略して次の観光地である永平寺を目指す。
寛元2年(1244)、道元禅師によって建てられた「傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)」が永平寺の開創にあたり、寛元4年(1246)に山号寺号を「吉祥山永平寺」と改められた。
寺号の由来は、中国で初めて仏法が伝えられた後漢の明帝の時の元号「永平」からで、意味は「永久の平和」ということだそうだ。
その後暦応3年(1340)に兵火で伽藍が焼失したほか、何度か火災にあい、現存の諸堂はすべて近世以降のもので、主な建物では山門(寛延2年[1749])、法堂(はっとう:天保14年築[1843])以外は明治以降のものである。

上の写真は最初に見学する傘松閣(さんしょうかく)の156畳敷きの大広間。天井には昭和初期の画家による絵が描かれている。そこから、僧堂(明治35年築)、仏殿(明治35年築)、法堂、大庫院(昭和5年築)、山門等を見て廻るのだがとにかく広く、これらの建物が回廊でつながっていて、ずっとスリッパを履いて見学していく。

永平寺の紅葉を少し期待していたのだが、もともと楓などはあまり植えられていないようで、圧倒的に杉等の針葉樹が多く、時おり色づいた葉を見ることが出来る程度だった。

鬱蒼と茂る老杉の奥にある唐門。永平寺の写真で必ず出てくる有名な場所なのだが、残念ながらここは観光客には公開されていなかった。
永平寺の近くで駐車させていただいたお店で土産に団助の「ごま豆腐」を買った後、次の観光地である「越前竹人形の里」を目指す。

何年前か忘れてしまったが初めて越前竹人形の写真を見た時に、竹細工でこんな人形が作れるのかと驚いたことがあるのだが、ここでは竹細工職人たちの手技を見学することが出来る。ここが工房の入口である。

中では竹人形制作の実演をしていた。竹の節から節までの部分を縦に細かく割っていき、1mm程度の細さのものを更に4分割して人形の髪の毛などに使うそうだ。この作業だけでも大変だと思うのだが、この繊維を小さな人形の頭部に2000本以上植えていくのだそうだが、気の遠くなるような作業だ。
作業だけではない。それぞれ形が違いまた加工の難しい竹の曲面や節をどう組み合わせてどう活かし、どんな作品に仕上げるかはいくら手先が器用でも簡単な事ではないだろう。

越前竹人形の歴史はそれほど古いものではなく、もともとは昭和27年に師田保隆さんと弟・米長三四郎さんが農閑期に竹製の花額を作っていたのを、余りの竹を使って人形が作れないかと試作研究して、いくつかの人形を作ったのが始まりだそうだ。それが、評判を得て次第に大きな人形を作るようになり、全国的な賞を多数受賞して越前竹人形は福井県の新しい伝統工芸品として認知されるようになり、今では海外にも販売されているのである。

創作竹人形展示館「黎明」には素晴らしい作品が展示されているので必見だ。どこにでもある竹が、こんな姿に生まれ変わることが奇跡のように思えて、小さな人形を見ながら飽きることがない。
二人の兄弟が素晴らしい仕事をし、師田保隆氏の長男の師田黎明氏が芸術性を高めていった。その努力が実を結び、地元に大きな職人の工房や販売所や食堂が出来て、地元の方が働ける職場もできた。そのエネルギーを今多くの地方が失ってしまっている。
竹の素材を活かしながら、匠の指先が人形に命を吹き込んでいく職人の世界。
何もかもが機械化されて職人の世界が消えていく中で、福井の山里で人形作りの新たな職人が生まれ育っていることに感動を覚えた。ひたすら人形と向き合い誇りを持って働く職人を見て、少し元気をもらったような気がした。
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