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千古の家、丸岡城、東尋坊から芦原温泉へ~~越前カニ旅行1日目その2

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Category福井県
越前竹人形の里で素晴らしい竹人形を見た後、「千古の家」と呼ばれる坪川家住宅を見学に行く。

坪川家住宅

パンフレットには「坪川家の先祖坪川但馬丞貞純は北面の武士で、源三位頼政(げんさんみよりまさ)の後裔といわれている。今を去るおよそ700年前、故あって、この地に定住した。…建てられたのは中世末期であるとされ、全国的にも貴重な民家の一つとされ…、昭和41年に国の重要文化財に指定され」たと記されている。

「北面の武士(ほくめんのぶし)」とは、上皇(じょうこう:皇位を後継者に譲ったあとの天皇の呼び名で「院」ともいう)に仕えて、院の北面下臈に詰め、身辺の警護あるいは御幸に供奉した武士のことをいう。また「源三位頼政」とは源氏でありながら平清盛に信頼され従三位まで上り詰めたが、治承4年(1180)以仁王に平氏打倒を働きかけ、以仁王の令旨を得て反平氏勢力の蜂起を促そうとしたが、計画が露見したため平氏の追討を受け、宇治平等院の戦いで敗れて自害した源頼政(みなもとのよりまさ)のことだ。

その源頼政の後裔と言われる坪川但馬丞貞純がこの地に定住した後、坪川家は周辺の集落を司る七人の名司の筆頭として高い格式を持ち、近代になって丸岡町に統合されるまでは代々村長を務めていたのだそうだ。

屋根は茅葺きだがすごく重厚感に満ち迫力がある。室内は撮影禁止で紹介できないのが残念だが、荒々しく削られた太い栗の柱がこの家を支え、面白いのは「股柱」と呼ばれる二股に分かれた太い柱の一方の枝を短く切って側桁を支え、他方を斜め上にのばして上屋桁を受けている。すなわち、1本の柱で二本の柱の役割を持たせたものが三本も使われていた。

坪川家庭園

東側の庭は国登録記念物に指定されているのだが、残念ながら紅葉が最も美しい時期は過ぎてしまったようだ。
また別棟で坪川家伝来の古文書や屏風などの宝物も展示されていた。

次に現存する最古の天守閣と言われる丸岡城(別名:霞ヶ城)を目指していく。

丸岡城

丸岡城は天正4年(1576)に柴田勝家の甥である柴田勝豊によって築かれた城で、二重三層の天守閣は、領主の居館としての機能を持った望楼式天守で、屋根は「笏谷石(しゃくだにいし)」と呼ばれる石材を使った石瓦で葺かれており、現在この建物は国の重要文化財に指定されている。

昔の丸岡城

昔の城郭は五画形の広い濠を有し、外郭に侍屋敷を配置し、さらに外濠があって寺院民家を包容した城下町が形成されていたのだが、大正期から昭和にかけて濠は埋められてしまい、今は天守閣と石垣の一部が残されているのみである。

日本の城の天守のうち江戸時代以前に建設され現在まで保存されているものを「現存天守」とよぶが、7つの天守閣(水戸城、大垣城、名古屋城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城)が太平洋戦争で焼失し、戦後の失火で松前城も焼失し、「現存天守」は12*あり、丸岡城はその中で一番古いものである。* (弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根錠、姫路城、松江城、備中松山城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城)

丸岡城地震

しかしながら、丸岡城は昭和23年(1948)の福井地震で石垣が崩れて上の画像のように倒壊してしまい、昭和30年(1955)に元の古材を8割近く使用して修復再建されたそうである。

日本一短い手紙として有名な「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は徳川家康の功臣の本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てて書いたものだが、この中の「お仙」は本多作左衛門重次の嫡子の仙千代で、その後仙千代は本多成重と名乗り福井城主に仕えて武勲をたてたことにより、この丸岡城の第六代城主となっていることはここへ来て初めて知った。
また丸岡城は日本100名城、日本さくら名所100選にも選ばれており、福井県の観光には欠かせないスポットである。

次の観光地は東尋坊だ。
昼からは激しいにわか雨が何度かあったが、運よく東尋坊は雨に降られずに観光することが出来た。しかし、楽しみにしていた観光遊覧船は風も波も強かったために残念ながら欠航していた。

東尋坊2

東尋坊は輝石安山岩の柱状節理という、世界で3箇所しかないといわれる奇岩が続き、東尋坊先端に浮かぶ雄島と共に天然記念物に指定されている。

東尋坊1

左の画像が有名な三段岩。雨の後でかなり岩が濡れており危険なので、あまり奥には進まなかった。

東尋坊の散策路を一通り歩いてから、雄島にも渡ってみた。

大湊神社

雄島にある大湊神社は昔から航海・漁業の守護神として崇敬されてきたが、 天正年間(1573~1591)に織田信長の兵火にあって焼失し、現在の社殿は元和7年(1621)に福井藩主松平忠直公により再建されたものである。この建物と伊邪奈岐命の木彫の座像が県指定の重要文化財になっている。 さらに進めば灯台や、磁石を狂わす磁石岩などがあるのだが、雨の後で地面がぬかるんでいたので、それ以上奥に行くのは諦めた。

夕刻近くになったので、芦原温泉で予約した旅館に向かう。
もちろん料理はカニ会席料理で、料金も高かったので大きなカニを期待していたのだが、カニに黄色いタグはなかったし、カニも思っていたよりか小振りのものだった。

本物の越前ガニには黄色いタグが付いているはずなのだが、本物の越前ガニを食べるには、去年の香住のように民宿を予約した方が良かったようだ。温泉や設備などは申し分なかっただけに残念だ。

東尋坊は子供の頃に家族で来た記憶があるのだが、その当時は岩場に通じる商店街がもっと賑わっていたように思う。今は、多くの観光客はただ店前を通り過ぎるだけで、随分空店舗が増えているのが気になった。

このようなことは東尋坊だけの話ではないが、昔はホテルの売店も小規模で、ロードサイドなどに土産物を沢山まとめ買い出来るような店もなかったので、観光客は観光地の売店で御土産を買っていた。わかりやすく言うと、昔は観光地の売店とホテルとは共存共栄の関係にあったのだと思う。
しかし、今ではホテルでも、高速のサービスエリアや道の駅などでも御土産が買えるようになって、観光客にとっては便利だが、観光地の小さな商店は大幅に売上を落とし、利益が出なくなってしまって閉鎖が相次いでいる。

地元の商店の経営の仕方にもっと工夫が必要なのかもしれないが、行政も地元との共生を考慮しない大手業者の参入を認め過ぎてはいないだろうか。
観光地は土地全体で醸し出す文化や空気を失ってしまっては旅行客にとっては魅力のないものになってしまう。 地元の企業がいくら努力しても、またいくら観光客が増加しても、都会資本の会社が潤うばかりで地元があまり潤わないのであれば、次第にその観光地は活力を失い、その魅力も色あせていくのではないだろうか。
観光客のために作られた大きな施設がバラバラに私的な利益を追求するのではダメで、地元の発展のために存在し行動する共生の価値観が必要なのだと思う。
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