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「牛若丸と弁慶の物語」の虚構

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Category鎌倉時代
前々回に、三国の事を書いた。

そこで毎年5月20日に行われる福井県指定無形民俗文化財である三国祭の明治時代の山車を紹介したが、この人形は「牛若丸弁慶」であることは日本人なら誰でもわかる。

三国祭りの山車

弁慶は太刀千本を奪い取ろうと誓い、夜毎に通行人を襲ってはその刀を奪っていき、ついに999本に達した。最後の1本を奪い取るために京都の五条大橋で待ち構えていたが、そこへ通りかかったのが牛若丸(後の源義経)で、五条の橋の上で一騎打ちとなって、弁慶は身のこなしが軽い牛若丸に翻弄されて、太刀も奪えずに敗れてしまう話だ。

牛若丸と弁慶

子供の時にこの話を絵本や漫画で読んで、「牛若丸」という童謡も何度か聞いた記憶がある。調べるとこんな歌詞になっている。

「京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 
長い薙刀ふりあげて 牛若めがけて切りかかる

牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 
来い来い来いと欄干の 上へあがって手を叩く

前やうしろや左右 ここと思えば またあちら 
燕のような早業に 鬼の弁慶あやまった」

子供の時は素直にこの話を信じていたが、長刀の名人が中学生か高校生くらいの子供に打ち負かされるような話は、どうも嘘くさいと思うようになっていったがその話題は後にしよう。
しかし、牛若丸と武蔵坊弁慶との出会いの場所が五条大橋であったことについては長い間信じていた。

牛若丸と弁慶像

五条大橋には昭和36年に京人形師「面庄」の十三世岡本庄三さんが制作し京都青年会議所が寄贈した「牛若丸と弁慶像」が建立されているので、私に限らず誰もがこの場所で牛若丸と弁慶が出会ったと思ってしまうことだろう。

しかしネットでいろいろ調べると、牛若丸と弁慶の時代にこの場所に橋が存在しなかったことが見えてくる。

平安京を建設した当時の大路は一条から九条まであり、各大路の間は三本の小路によって等間隔に区切られていて、その中央の小路を「坊門小路」と呼んでいたそうだ。

京都通り

例えば三条通りと四条通りの間には、六角、蛸薬師、錦の三本の小路があり、昔は蛸薬師が四条坊門小路ということになる。
しかし現在の四条通りと五条通りの間には、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺と五本もの小路があり、規則性が崩れている。昔は仏光寺が五条坊門小路で松原が五条大路で、今の五条通は「六条坊門小路」であったということになる。

この「六条坊門小路」に初めて橋を架けたのが関白秀吉なのだそうだが、牛若丸の時代から420年近く後の話なのである。だから、今の五条大橋での二人の出会いはそもそもありえないことになる。

五条大橋都名所図会

安永9年(1780)の「都名所図会」には五条橋の図会があり、説明文には
「初は松原通にあり、則いにしえの五条通なり。秀吉公の時此所にうつす、故に五条橋通といふ、実は六条坊門なり」と書かれている。もちろん牛若丸と弁慶の話は出て来ない。

昔「五条大路」であった松原通には、平安時代には鴨川に橋が架かっていた。従って、牛若丸と弁慶の出会いの場は今の「松原橋」だという説も根強くあるようだ。

しかしながら、室町時代に書かれた「義経記」を読むと五条大路も橋も出て来ない。今ではネットで「義経記」の全文を読む事が出来る。少々読みにくい文章だが、なんとなく意味はわかる。第三巻の「弁慶洛中において人の太刀を取る事」から「義経弁慶君臣の契約の事」に詳しく書かれている。
http://www.j-texts.com/chusei/kgikei.html

義経記」では、牛若丸と弁慶は二日連続で戦っており、一回目の場所は「五条の天神」(五条天神社:西洞院通り松原下る)で、二回目は「清水の観音」(清水寺)だ。原文では弁慶は長刀ではなく太刀で牛若丸と闘っている。

五条天神

上の画像はネットで見つけた五条天神社だ。平安時代にはここの柿の木に仏がおられるということで、多くの信者が参詣に来たと「宇治拾遺物語」巻二に書かれている。
http://kamnavi.jp/yamasiro/gojout.htm

では、二人の運命的な出会いの場所が「五条の橋」と書きかえられたのはいつの時代からなのだろうか。

ネットで調べると、永亨年間(1429-40)に成立したと思われる御伽草子『弁慶物語』二巻では清水寺から五条の橋に場所を移している。
http://www.taishitsu.or.jp/kyoto/sozoro21.html

「さて合戦の当所はいずくぞと仰せければ、やがてこの辺こそしかるべけれとて、清水寺より打連れて五条の橋に立ち出ずる。八月十七日の夜半ばかりの事なる に、源九郎義経、正年十九歳と御名乗りあって、御佩せ(の刀)をするりと抜き給う。弁慶も正年二十六と名乗り、四尺六寸(の刀)をするりと抜いて渡り合 う。観音参りの上下の衆、この道をさしふさぎ、不思議の見物出来とて貴賎群集したりけり云々」

しかしここでは「牛若丸」ではなくなって成人後の義経になっている。この年齢の頃は、義経は奥州にいたのではなかったか。

明治時代のお伽話作家として著名な巌谷小波(いわやさざなみ)は、明治27年(1894)から明治29年(1896)にかけて博文館から「日本昔噺」というシリーズを出しているが、このシリーズが、以後の子供向けの昔話や伝説の多くは、このシリーズがもとになっていると言われる。

巌谷小波

このシリーズでは、弁慶は狭い五条橋で薙刀を振り回すことになっているそうだ。
http://www.d1.dion.ne.jp/~ueda_nob/wildcat/kyoto/ushiwaka.html
最初に紹介した童謡の「牛若丸」も巌谷小波の作品に基づいている。

義経記」にせよ「御伽草子」にせよ巌谷小波にせよ、読者に面白おかしく読んでもらおうという文章であることは、読めばすぐわかる。面白く書こうとすれば、創作部分がかなり入らざるを得ない。

もともと史実に忠実に書かれたものではない「義経記」に次第に尾ひれがついて、子供の向けの本にもそのまま定着してしまって、800年以上経った今は史実ではない物語が日本人の常識になってしまった。

弁慶という人物は、鎌倉幕府の正史である「吾妻鏡」には、文治元年(1185)の条で都落ちした義経・行家一行の中に弁慶の名前が出てくるだけである。実在した人物であることは間違いないが、生年月日もわからず、その生涯についてはほとんどわかっていないのだ。
弁慶が義経の側近として大活躍しているのは物語の世界だけで、史実は義経の一族郎党の一人に過ぎなかったのかもしれない。
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