「ハル・ノート」は、アメリカが日米開戦に持ち込むための挑発だったのか
この『ヴェノナ文書』だけでは信じられない人もいるだろうが、旧ソ連側からも工作人が「ハル・ノート」作成に関与したことを裏付ける証言が近年になって出てきている。元ソ連NKVD(内閣人民委員部、後のKGB)工作員であったビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、当時このホワイトに接触し、ホワイトが草案を書くにあたって参考にするようメモを見せたと、近年になって証言しているのである。
パブロフは1995年にホワイトとの交渉などを『スノウ作戦』という自著に記し、1997年にNHKの特別番組の取材を受けて、その内容についてはわが国でも放送されたそうだが、この時のインタビューの内容の詳細が須藤眞志氏の『ハル・ノートを書いた男』(文春新書p.129-164)に記述されている。

須藤氏の著書によると、パブロフとホワイトが会ったのは1941年の5月で、ワシントンで昼食を共にした時間にパブロフはホワイトにメモを渡している。証拠を残さないためにそのメモはその場で回収されたために内容の検証は不可能だが、そのメモの内容のいくつかが「ハル・ノート」の草稿に少なからずの影響を与えた可能性が高い。
またパブロフの著書『スノウ作戦』の内容の一部が産経新聞社の『ルーズベルト秘録 下』(p.272-276)に紹介されている。

パブロフがホワイトに渡したメモがそのままハル・ノートになったわけではないようなのだが、その『スノウ作戦』という本には「作戦は見事に成功し、日本に突きつけられた厳しい対日要求、ハル・ノートこそがその成果だった」と書いていることは注目して良い。
では、ハル・ノートとはどのような内容で、なぜわが国はその内容を最後通牒と考えたのか。その点についてはあまり教科書には書かれていないのである。
次のURLに原文および日本語訳が紹介されているが、重要な部分は第2項の各条文である。
(英語原文) http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/hullnote.html
(日本語原文ならびに口語訳)
http://members.jcom.home.ne.jp/rekisi-butaiura/hull%20note.htm
この内容が日本側に失望を与えたというのだが、そのことは8か月にわたる日米交渉の経緯をある程度知らなければ理解しづらい。
Wikipediaに日米交渉の経緯が書かれているので、それを参考に纏めてみる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88
1941(昭和16)年11月20日に日米交渉においてわが国は以下の「乙案」を提示した。
「1.日米は仏印以外の諸地域に武力進出を行わない
2.日米は蘭印(オランダ領東インド)において石油やスズなどの必要資源を得られるよう協力する
3.アメリカは年間100万キロリットルの航空揮発油を対日供給する
備考:(A) 交渉が成立すれば日本は南部仏印進駐の日本軍は北部仏印に移駐する (B) 日米は通商関係や三国同盟の解釈と履行に関する規定について話し合い、追加挿入する」
アメリカ政府は日本の「乙案」についての対応を11月21日に協議し、3か月間は日米の通商関係を資産凍結令以前の状態に戻すなどの内容の「暫定協定案」を検討していたが、26日早朝までにハル国務長官とルーズベルト大統領との協議が行われ、「暫定協定案」が放棄されて、ホワイト作成の「ハル・ノート」を提示することになったという。
「ハル・ノート」について、わが国が到底飲めなかった部分は以下の点である。
・支那大陸やフランス領インドシナからの即時無条件完全撤退(第2項-3)
・汪兆銘政権(南京政府)を見捨てて重慶の蒋介石政権(重慶政府)を支持すること(第2項-4)
・日独伊三国同盟の死文化(事実上の破棄)(第2項-9)
我が国に対しこれだけのことを要求しておきながら、わが国が最も強く求めていた経済封鎖解除に関する回答は一言もない。これでは石油などの必要資源が得られる保証が全くない。
今まで何度か紹介した倉前盛通氏の解説を紹介しよう。
「この電文をうけとった時、日本の首脳部は青天の霹靂に打たれた感を持ち、米国は、どうしても日本との戦争を欲しており、もし日本が手を出さなかったなら、米国の方から攻撃が加えられることをはっきり知らされた。それは、完全な日本への無条件降伏要求であり、『日本は明治維新以前の四つの島にもどれ』という通告であった。…

極東軍事裁判の判事として列席したインドのパール判事は、その判決文、『日本無罪論』の中で、『アメリカ政府が日本政府へ送ったものと同じ通牒をうけとった場合、モナコ王国、ルセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに対して武器をとって起ち上がったであろう』と述べている。およそ、世界の外交史でハル・ノートのように極端に挑発的な最後通告は空前絶後といえるであろう。…
米国が何故、この時点で態度を急変させたか、それは米国の戦争準備が完了したからである。大戦に参加する決意をさだめてから、米国は鋭意、戦争の準備をすすめていた。10か月にわたる日米交渉も、実はアメリカが時を稼ぐための芝居にすぎなかった。徹頭徹尾,不誠意であったのはアリカの方である。…
ハル国務長官は、ハル・ノートを日本につきつけたあと、米国の陸海軍首脳に対して、『これで僕の仕事は終わった。あとは君たちの仕事だ』と洩らしている。英国大使にも同じことを伝えた。
ルーズベルトは、日本の回答を待つことなく、11月27日付で米国前哨指揮者に『戦争体制に入れ』という命令を発した。真珠湾は断じて不意打ちではなかったのである。」(倉前盛通『悪の論理』p.77-78)
前回の記事に書いた通り、当時のわが国の石油消費量は年間約400万トンで、その95%近くを米国からの輸入に頼っていた。また当時のわが国の石油の備蓄は600万トン程度しかなく、その状態でアメリカは7月に石油をわが国に輸出しないことを一方的に通告してきたのである。それから約4か月日米交渉が続いた結末がハル・ノートで、石油の備蓄はさらに減って、開戦したころは1年分程度の備蓄しかなかったのである。これではハル・ノートを受諾したところでわが国の経済が成り立つはずがないではないか。満州や朝鮮半島や台湾やインドシナの権益をすべて捨てて石油も資源も手に入らないのでは、国民の支持が得られないどころか、暴動になってもおかしくない。

当時の海軍大臣であった嶋田繁太郎はこう語ったという。
「十一月二十六日、ハル・ノートを突きつけられるまで、政府、統帥部中、だれ一人として、米英と戦争を欲したものはいなかった。日本が四年間にわたって継続し、しかも有利に終結する見込みのない支那事変で、手いっぱいなことを、政府も軍部も知りすぎる程知っていた。天皇は会議のたびに、日米交渉の成り行きを心から憂慮されていた。第二次近衛内閣も、東条内閣も、平和交渉に努力せよという天皇の聖旨を体して任命され、政府の使命は日米交渉を調整することかかっていた。」(同上書 p.80-81)

また当時の外務大臣であった東郷茂徳は、こう述べている。
「ハル・ノートを野村大使からの電報で受けとった時、眼もくらむばかりの失望にうたれた。日本が、かくまで日米交渉の成立に努力したにもかかわらず、アメリカはハル・ノートを送って、わが方を挑発し、さらに武力的弾圧をも加えんとする以上、自衛のため戦うの外なしとするに意見一致した」(同上書 p.81)
驚くなかれ、アメリカ陸軍元帥、GHQ最高司令官を歴任したダグラス・マッカーサー自身が1951年の5月に上院軍事外交共同委員会で、この戦争を日本の自衛戦争だという趣旨のことを述べている。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/macar.html

「日本が抱える八千万人に近い膨大な人口は、四つの島に詰め込まれていたということをご理解いただく必要があります。
そのおよそ半分は農業人口であり、残りの半分は工業に従事していました。
潜在的に、日本における予備労働力は、量的にも質的にも、私が知る限りどこにも劣らぬ優れたものです。
いつの頃からか、彼らは、労働の尊厳と称すべきものを発見しました。つまり、人間は、何もしないでいるときよりも、働いて何かを作っているときの方が幸せだということを発見したのです。
このように膨大な労働能力が存在するということは、彼らには、何か働くための対象が必要なことを意味しました。
彼らは、工場を建設し、労働力を抱えていましたが、基本資材を保有していませんでした。
日本には、蚕を除いては、国産の資源はほとんど何もありません。彼らには、綿が無く、羊毛が無く、石油製品が無く、スズが無く、ゴムが無く、その他にも多くの資源が欠乏しています。それらすべてのものは、アジア海域に存在していたのです。 これらの供給が断たれた場合には、日本では、一千万人から一千二百万人の失業者が生まれるという恐怖感がありました。
したがって、彼らが戦争を始めた目的は、主として安全保障上の必要に迫られてのことだったのです。」
マッカーサーは朝鮮戦争でソ連軍と対峙してはじめて、満州を共産勢力に渡さないことが、わが国が国を守る為に必要であったことを理解したのだろうか。いずれにせよ、この発言の4か月後にアメリカはわが国の占領政策を変更し、わが国を独立させようとバタバタとサンフランシスコ講和条約を締結することになるのである。
「窮鼠猫を噛む」のことわざの通り、「ハル・ノート」を受け取ったわが国は生存権をかけて日米開戦の道を選択せざるを得なかったというのが真相であったと思うのだが、敗戦国の悲しさで、この戦争の責任のほとんど全てがわが国に擦り付けられた状態にあるのが現実である。
アメリカやロシアや中国など戦勝国にとって都合の悪い史実のほとんどが伏せられているために、わが国はリアリティのない浅薄な歴史記述を押し付けられて、それがマスコミや教科書に拡散され、いつの間にか日本人の常識になってしまっているのは残念なことだ。
しかし、この洗脳を解かないことには、本当の意味でわが国の「戦後は終わらない」のだと思う。
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