三方五湖観光後昼食は「淡水」の鰻。続けて紅葉名所・鶏足寺を訪ねて~若狭カニ旅行3
旅行の2日目は、民宿をチェックアウトしてから、まだ走ったことのない「三方五湖レンイボーライン」を走ることにした。この道はカメラマンの須藤英一氏が選んだ『日本百名道』のうちの一つになっている道だ。
http://blog.goo.ne.jp/adriveki/c/fce0a5a016f7afe0083accd5751a96a7
11.24kmの有料道路だが、カーブが多く、運転しながら景色を楽しむわけにもいかないので、3つある駐車場で車を停めて景色を楽しむことしかできなかったが、快晴だったらもっと素晴らしい景色が望めたのにと思うと残念だ。

この季節に朝一番にレインボーラインを走ったのも失敗で、薄曇りの天気ながら湖の方角が逆光のために、良い写真が撮れなかった。綺麗な写真が撮れそうだったらリフトに乗って頂上まで登ってもよかったのだが今回は断念して、次の訪問先の「若狭三方縄文博物館」に向かうことにした。

この博物館のすぐ近くに、今から12000年~5000年前の縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡「鳥浜貝塚」があり、低湿地で発見されたために保存状況が極めて良好で、木製遺物など1376点が国の重要文化財に指定されているのだそうだ。その遺物の一部がこの「若狭三方縄文博物館」に展示されている。
博物館の中は撮影禁止のため紹介できないが、次のURLで「鳥浜貝塚」のことが写真入りで詳しく書かれている。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf
縄文式の遺物というと、普通は石器や土器や骨や貝殻といったものしか出てこないことが大半なのだが、ここでは当時の丸木舟 木製品や縄、編物、漆製品、木の実・魚・貝類なども含め、自然遺物といった有機物が半ば水漬けの状態で大量に発掘されているので、「鳥浜貝塚」のことを「縄文のタイムカプセル」などと呼ばれているのだそうだ。

驚いたのは、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品がでていることで、この時代の日本人はすでに漆塗りの器や生活道具を作っていたことを初めて知ったし、漆の技術は同時代の中国の物と比べても若狭のものの方が優れているのだそうだ。また、真珠や骨角や石のアクセサリーなどの装身具や工芸品も出土しており、こんなに古い時代においても高度な文化を持っていたことがわかっている。
遺物層の中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されている。これらの堆積状況から、縄文の人々の季節ごとの食生活が明らかとなり、秋に採取した森の食物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝を、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかったという。また、ゴボウ、アブラナ、シソ、ヒョウタンなどの種も見つかっており、すでに植物栽培も始められていたようだ。この時代の人々の食生活は、私が想像していたよりもはるかに豊かなものであったようだ。

博物館のすぐ近くに「若狭町観光案内センター」があり、農産物の販売所があったので立ち寄ってみた。たまたまイベントをしておられて、地元の方が作られた「けんちん汁」を御馳走になった。野菜の旨みがたっぷりあって、とても体が温まった。

中に入って地元の野菜やお酒などを買い込むと、イベントで輪投げがセットされていて、うまい具合に地元のお味噌や梅の加工品などが当たってしまった。旅行先でこういう時間が持てると思わなかったが、地元の元気な叔母さんたちと交流ができて楽しかった。
三方五湖は鰻が有名なので、昼食はこの近くで鰻料理と初めから決めていた。
11時を過ぎたので早目の昼食をとることとし、すぐ近くにある鰻料理店「淡水」に行く。
ネットでは評判のよさそうな店だったので早めに入ったのが正解だった。開店が11時なのだが、三方湖に面した窓際の席はすでに埋まっていて、12時になるまでに満席になってしまった。

これが「淡水」の「うなぎ丼」。肉厚の鰻の身と皮の表面がカリッと焼かれていて、身には脂がしっかり乗っていて旨かった。
他にもいろいろ行きたいところがあったのだが三方五湖を後にして、次の目的地である滋賀県長浜市にある鶏足寺に向かう。
さすがに紅葉の名所で有名な場所だけある。駐車場に入れなかった車が道路にあふれていた。たまたま臨時駐車場に入っていた車が2台程空いたので、運よくすぐに車を駐車することができた。

大勢の人が歩く道をしばらく進むと、與志漏神社(よしろじんじゃ)がある。この参道の紅葉が美しい。

参道を進むと薬師堂(旧戸岩寺)があるが、今は無住の寺である。この寺は、715年に行基が北西の異光山から遷したと伝えられている古刹で、この本尊の薬師如来は滋賀県最古の仏像で重要文化財に指定され、当地の氏仏として信仰を集めていたのだが今はここにはない。

その近くに己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)という仏像が収蔵され公開されている施設がある。
「己高閣」は国庫の補助を受けて建設されたが、「世代閣」は住民の浄財を集めて建築され、地域の住民の力で文化財が守られているのだ。
己高閣には鶏足寺の本尊の十一面観音立像(平安時代:国指定重要文化財)などがあり、世代閣には先ほど紹介した薬師堂(旧岩戸寺)の本尊であった薬師如来立像(奈良時代:国指定重要文化財)などが収められている。
平安時代に制作された仏像が他にもあったが、立派な仏像にしては後ろに光背がないものが多く、光背があっても最近に作られたものであることが一目でわかるし、立派な仏像に釣り合わないものが大半だ。台座も同様だ。
かなり破損した仏像がいくつかあったが、以前このブログでレポートした、金刀比羅宮の宝物館で見た廃仏毀釈で仏像にかなり似ていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html
明治の廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、仏像も壊されたり、燃やされたり、捨てられたりしたことを過去何度かこのブログで書いてきたが、己高閣・世代閣にある仏像の多くは、明治の初期によく似たことがあったのだと思う。

近くに、応永14年(1407)頃の伽藍配置を想定して書かれた鳥瞰図があり、その下に鶏足寺の由緒について記載されていた。そこには、
「(鶏足寺は)室町期には僧坊百二十宇を容する大寺院となり、湖北仏教文化圏の中核として隆盛を極め、後期には小谷城主浅井家三代、次いで豊臣家の祈願所となり、石道寺・法華寺・飯福寺その他の名刹を別院としてその格調を誇っていた。
江戸時代には徳川幕府も京都所司代に命じて寺領を保護し寺の維持を図ったが、地理的悪条件から次第に衰退し、末期には無住となり権現堂とともに最後まで残っていた本堂も昭和八年冬不審火により焼失した。
御本尊は大正三年に與志漏神社境内に遷佛していたため無事であり、数奇な運命をたどられた観音菩薩を千二百年後の今も「己高閣」で拝することができるのは誠に幸いである。」 とあるが、明治初期の廃仏毀釈のことは何も書かれていないのは不自然だ。
そもそもなぜ、鶏足寺の本尊が與志漏神社境内に持ち込まれていたのだろうか。

紅葉散策のために歩き出して鶏足寺(旧飯福寺)の参道に達すると、案内板には「明治時代に入り廃仏毀釈などによって寺院の規模は縮小されてしまいました。」とだけ書かれていたが、パンフレットや説明書になぜ廃仏毀釈のことを書かないのだろうか。何もなかったように自然消滅したような書き方では、地域の人々が苦労して文化財を護ってきたことが伝わらないだろう。
鶏足寺のある己高山(こだかみやま)には小浜のように1000年以上の歴史のある寺がいくつも存在していたのだが、明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、そのうちのいくつかの寺が破壊されるか、神社に変えられたか、後に廃寺となるか、無住の寺院となっており、最盛期には120近くあったという堂宇はこの時期にかなり失われてしまった。
以前、ここにどれだけの寺院があり、それらの寺がどうなったかについて、詳しく知るにはs.minagaさんの次のURLが参考になる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_kodakamiyama.htm

この鶏足寺の参道あたりが特に紅葉の美しいところであるが、今年は紅葉が全国的に遅くて、ピークよりも1週間程度早く来てしまったようだ。

それでも、所々で鮮やかな紅葉を楽しむことができた。
この参道を進んでいくとお堂が建っていたが、あまりに安普請なのでシャッターを押す気にもならなかった。

ネットでいろいろ調べると、先ほど紹介したs.minagaさんのサイトに鶏足寺(旧飯福寺)の明治29年の絵が見つかった。こんな古いお寺が仏像とともに残っていたらもっと素晴らしいのにと思うのだが、ほとんどが廃墟となってしまっている。それでも紅葉だけでこれだけの観光客が集まることに、やや複雑な思いがした。
鶏足寺(旧飯福寺)から少し歩くと、石道寺(しゃくどうじ)というお寺がある。この寺の周辺も紅葉がきれいなところだ。

今の本堂は大正3年に、現在地より東1kmの山間僻地にあった旧石道寺の本堂を移築したものだが、旧石道寺は神亀三年(726)の開基で、のち行基菩薩が堂宇を建てたという古刹である。
この石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されている。
これだけの歴史があり文化財がある寺であるのに住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けているのだそうだが、己高閣・世代閣とは違って暗い本堂の中で、手を合わせることできる空間が残されていることがありがたい。

この画像はネットで探した本尊の十一面観音立像だ。
ケヤキの木は堅いので、仏像を制作するのは大変な苦労があっただろう。ケヤキの一木彫りで複雑な十一面観音像を彫るというのは、余程深い思いがなければできない仕事だろう。
これらの仏像が地域の人々の信仰を集め、住職不在の寺となっても人々が観音様の世話を続けてきたのは、地域の人々がこの仏像の素晴らしさを理解し、親が大事にしてきたものを後世にも伝えていきたいという共通の思いからなのだろう。もし芸術的な価値が認められなかったら、人々がここまで長い年月を超えて護られるはずがないのだと思う。
文化財の護り方は、小浜のようにお寺の住職の生活ができるようにして古いものを、古いまま残せれば一番良い。そこで住職の生活ができなければ、石道寺のように地域の人々によって祈りの空間が残せればよい。しかし建物の維持すら困難になれば、祈りの空間は失われ、多くの仏像が博物館に並ぶか売却されていくしかない。
先人たちが苦労して制作し、長い年月にわたり地域の人々が苦労して残してくれた祈りの空間を、できる限り後世に残していくことは、今生きている世代の務めだと思うのだが、今の経済効率優先の政策では地方によっては地元に若い世代が残らず高齢化・過疎化が進むばかりで、いずれは地方の貴重な文化や伝統は担い手を失って、次代に承継することが難しくなっていくことを危惧している。そのような地域で若い人が生活できる仕組みを考えないと地域の文化・伝統が護れるとは思えない。
私ができることはこのような地方を訪れて、わずかばかりの拝観料を支払い、お賽銭を入れ、地域の野菜や魚やお土産を買い、地域のお店で食事をしたり宿泊することくらいなのだが、同じことを少しでも多くの人が行えば、地域の古き良き文化伝統を次代に残す道を拓くことができるのではないだろうか。
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この季節に朝一番にレインボーラインを走ったのも失敗で、薄曇りの天気ながら湖の方角が逆光のために、良い写真が撮れなかった。綺麗な写真が撮れそうだったらリフトに乗って頂上まで登ってもよかったのだが今回は断念して、次の訪問先の「若狭三方縄文博物館」に向かうことにした。

この博物館のすぐ近くに、今から12000年~5000年前の縄文時代草創期から前期にかけての集落遺跡「鳥浜貝塚」があり、低湿地で発見されたために保存状況が極めて良好で、木製遺物など1376点が国の重要文化財に指定されているのだそうだ。その遺物の一部がこの「若狭三方縄文博物館」に展示されている。
博物館の中は撮影禁止のため紹介できないが、次のURLで「鳥浜貝塚」のことが写真入りで詳しく書かれている。
http://infokkkna.com/ironroad/dock/iron/8iron08.pdf
縄文式の遺物というと、普通は石器や土器や骨や貝殻といったものしか出てこないことが大半なのだが、ここでは当時の丸木舟 木製品や縄、編物、漆製品、木の実・魚・貝類なども含め、自然遺物といった有機物が半ば水漬けの状態で大量に発掘されているので、「鳥浜貝塚」のことを「縄文のタイムカプセル」などと呼ばれているのだそうだ。

驚いたのは、赤漆塗の櫛をはじめとする漆製品がでていることで、この時代の日本人はすでに漆塗りの器や生活道具を作っていたことを初めて知ったし、漆の技術は同時代の中国の物と比べても若狭のものの方が優れているのだそうだ。また、真珠や骨角や石のアクセサリーなどの装身具や工芸品も出土しており、こんなに古い時代においても高度な文化を持っていたことがわかっている。
遺物層の中には、ドングリ・クルミなどの種子層、魚の骨やウロコなどの魚骨層、淡水の貝殻の貝層が確認されている。これらの堆積状況から、縄文の人々の季節ごとの食生活が明らかとなり、秋に採取した森の食物を秋から冬にかけて食べ、春には三方湖で魚や貝を、夏は若狭湾に回遊するマグロ・カツオ・ブリ・サワラを捕って食べていたことがわかったという。また、ゴボウ、アブラナ、シソ、ヒョウタンなどの種も見つかっており、すでに植物栽培も始められていたようだ。この時代の人々の食生活は、私が想像していたよりもはるかに豊かなものであったようだ。

博物館のすぐ近くに「若狭町観光案内センター」があり、農産物の販売所があったので立ち寄ってみた。たまたまイベントをしておられて、地元の方が作られた「けんちん汁」を御馳走になった。野菜の旨みがたっぷりあって、とても体が温まった。

中に入って地元の野菜やお酒などを買い込むと、イベントで輪投げがセットされていて、うまい具合に地元のお味噌や梅の加工品などが当たってしまった。旅行先でこういう時間が持てると思わなかったが、地元の元気な叔母さんたちと交流ができて楽しかった。
三方五湖は鰻が有名なので、昼食はこの近くで鰻料理と初めから決めていた。
11時を過ぎたので早目の昼食をとることとし、すぐ近くにある鰻料理店「淡水」に行く。
ネットでは評判のよさそうな店だったので早めに入ったのが正解だった。開店が11時なのだが、三方湖に面した窓際の席はすでに埋まっていて、12時になるまでに満席になってしまった。

これが「淡水」の「うなぎ丼」。肉厚の鰻の身と皮の表面がカリッと焼かれていて、身には脂がしっかり乗っていて旨かった。
他にもいろいろ行きたいところがあったのだが三方五湖を後にして、次の目的地である滋賀県長浜市にある鶏足寺に向かう。
さすがに紅葉の名所で有名な場所だけある。駐車場に入れなかった車が道路にあふれていた。たまたま臨時駐車場に入っていた車が2台程空いたので、運よくすぐに車を駐車することができた。

大勢の人が歩く道をしばらく進むと、與志漏神社(よしろじんじゃ)がある。この参道の紅葉が美しい。

参道を進むと薬師堂(旧戸岩寺)があるが、今は無住の寺である。この寺は、715年に行基が北西の異光山から遷したと伝えられている古刹で、この本尊の薬師如来は滋賀県最古の仏像で重要文化財に指定され、当地の氏仏として信仰を集めていたのだが今はここにはない。

その近くに己高閣(ここうかく)、世代閣(よしろかく)という仏像が収蔵され公開されている施設がある。
「己高閣」は国庫の補助を受けて建設されたが、「世代閣」は住民の浄財を集めて建築され、地域の住民の力で文化財が守られているのだ。
己高閣には鶏足寺の本尊の十一面観音立像(平安時代:国指定重要文化財)などがあり、世代閣には先ほど紹介した薬師堂(旧岩戸寺)の本尊であった薬師如来立像(奈良時代:国指定重要文化財)などが収められている。
平安時代に制作された仏像が他にもあったが、立派な仏像にしては後ろに光背がないものが多く、光背があっても最近に作られたものであることが一目でわかるし、立派な仏像に釣り合わないものが大半だ。台座も同様だ。
かなり破損した仏像がいくつかあったが、以前このブログでレポートした、金刀比羅宮の宝物館で見た廃仏毀釈で仏像にかなり似ていた。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-69.html
明治の廃仏毀釈によって多くの寺院が破壊され、仏像も壊されたり、燃やされたり、捨てられたりしたことを過去何度かこのブログで書いてきたが、己高閣・世代閣にある仏像の多くは、明治の初期によく似たことがあったのだと思う。

近くに、応永14年(1407)頃の伽藍配置を想定して書かれた鳥瞰図があり、その下に鶏足寺の由緒について記載されていた。そこには、
「(鶏足寺は)室町期には僧坊百二十宇を容する大寺院となり、湖北仏教文化圏の中核として隆盛を極め、後期には小谷城主浅井家三代、次いで豊臣家の祈願所となり、石道寺・法華寺・飯福寺その他の名刹を別院としてその格調を誇っていた。
江戸時代には徳川幕府も京都所司代に命じて寺領を保護し寺の維持を図ったが、地理的悪条件から次第に衰退し、末期には無住となり権現堂とともに最後まで残っていた本堂も昭和八年冬不審火により焼失した。
御本尊は大正三年に與志漏神社境内に遷佛していたため無事であり、数奇な運命をたどられた観音菩薩を千二百年後の今も「己高閣」で拝することができるのは誠に幸いである。」 とあるが、明治初期の廃仏毀釈のことは何も書かれていないのは不自然だ。
そもそもなぜ、鶏足寺の本尊が與志漏神社境内に持ち込まれていたのだろうか。

紅葉散策のために歩き出して鶏足寺(旧飯福寺)の参道に達すると、案内板には「明治時代に入り廃仏毀釈などによって寺院の規模は縮小されてしまいました。」とだけ書かれていたが、パンフレットや説明書になぜ廃仏毀釈のことを書かないのだろうか。何もなかったように自然消滅したような書き方では、地域の人々が苦労して文化財を護ってきたことが伝わらないだろう。
鶏足寺のある己高山(こだかみやま)には小浜のように1000年以上の歴史のある寺がいくつも存在していたのだが、明治初期の廃仏毀釈・神仏分離で、そのうちのいくつかの寺が破壊されるか、神社に変えられたか、後に廃寺となるか、無住の寺院となっており、最盛期には120近くあったという堂宇はこの時期にかなり失われてしまった。
以前、ここにどれだけの寺院があり、それらの寺がどうなったかについて、詳しく知るにはs.minagaさんの次のURLが参考になる。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_kodakamiyama.htm

この鶏足寺の参道あたりが特に紅葉の美しいところであるが、今年は紅葉が全国的に遅くて、ピークよりも1週間程度早く来てしまったようだ。

それでも、所々で鮮やかな紅葉を楽しむことができた。
この参道を進んでいくとお堂が建っていたが、あまりに安普請なのでシャッターを押す気にもならなかった。

ネットでいろいろ調べると、先ほど紹介したs.minagaさんのサイトに鶏足寺(旧飯福寺)の明治29年の絵が見つかった。こんな古いお寺が仏像とともに残っていたらもっと素晴らしいのにと思うのだが、ほとんどが廃墟となってしまっている。それでも紅葉だけでこれだけの観光客が集まることに、やや複雑な思いがした。
鶏足寺(旧飯福寺)から少し歩くと、石道寺(しゃくどうじ)というお寺がある。この寺の周辺も紅葉がきれいなところだ。

今の本堂は大正3年に、現在地より東1kmの山間僻地にあった旧石道寺の本堂を移築したものだが、旧石道寺は神亀三年(726)の開基で、のち行基菩薩が堂宇を建てたという古刹である。
この石道寺の本堂には平安中期の作とされるケヤキの一木造の本尊・十一面観音立像(国・重文)、鎌倉時代の作とされる木彫持国天立像(国・重文)、木彫多聞天立像(国・重文)が安置されている。
これだけの歴史があり文化財がある寺であるのに住職が不在で、集落全体が観音様のお世話を続けているのだそうだが、己高閣・世代閣とは違って暗い本堂の中で、手を合わせることできる空間が残されていることがありがたい。

この画像はネットで探した本尊の十一面観音立像だ。
ケヤキの木は堅いので、仏像を制作するのは大変な苦労があっただろう。ケヤキの一木彫りで複雑な十一面観音像を彫るというのは、余程深い思いがなければできない仕事だろう。
これらの仏像が地域の人々の信仰を集め、住職不在の寺となっても人々が観音様の世話を続けてきたのは、地域の人々がこの仏像の素晴らしさを理解し、親が大事にしてきたものを後世にも伝えていきたいという共通の思いからなのだろう。もし芸術的な価値が認められなかったら、人々がここまで長い年月を超えて護られるはずがないのだと思う。
文化財の護り方は、小浜のようにお寺の住職の生活ができるようにして古いものを、古いまま残せれば一番良い。そこで住職の生活ができなければ、石道寺のように地域の人々によって祈りの空間が残せればよい。しかし建物の維持すら困難になれば、祈りの空間は失われ、多くの仏像が博物館に並ぶか売却されていくしかない。
先人たちが苦労して制作し、長い年月にわたり地域の人々が苦労して残してくれた祈りの空間を、できる限り後世に残していくことは、今生きている世代の務めだと思うのだが、今の経済効率優先の政策では地方によっては地元に若い世代が残らず高齢化・過疎化が進むばかりで、いずれは地方の貴重な文化や伝統は担い手を失って、次代に承継することが難しくなっていくことを危惧している。そのような地域で若い人が生活できる仕組みを考えないと地域の文化・伝統が護れるとは思えない。
私ができることはこのような地方を訪れて、わずかばかりの拝観料を支払い、お賽銭を入れ、地域の野菜や魚やお土産を買い、地域のお店で食事をしたり宿泊することくらいなのだが、同じことを少しでも多くの人が行えば、地域の古き良き文化伝統を次代に残す道を拓くことができるのではないだろうか。
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