真珠湾攻撃のあとでわが国が対米宣戦布告をしたのは故意か過失か
この説は、日本軍による真珠湾攻撃が「騙し討ちだ」とする「通説」の内容とは全く異なるのだが、ルーズベルトの側近が真珠湾攻撃の日に記した日記などを読むと、「通説」の方が的外れであることが見えてくる。

たとえばスチムソン陸軍長官(上画像)は真珠湾攻撃の日の午後二時にルーズベルトの電話を受け、その日の日記にこう書いている。
「それはたまらなく面白い事だった。…今やジャップはハワイで我々を直接攻撃することで問題全部を一挙に解決してくれた。日本の攻撃を受けた時、私の気持ちは、不決断の状態が終り、全米国民を一致団結させるような仕方で危機がやって来たというほつとした気持であった。」(中村粲『大東亜戦争への道』展転社p.634所収)
また当時の労働長官であったフランシス・パーキンズ女史は1946年に、この時の大統領のことをこう書いている。
「12月7日の閣議で大統領は、彼の誇りや海軍への信頼や米情報機関への信用に対する大打撃にもかかわらず、また戦争が実際もたらした惨害にもかかわらず、いつもよりもずっと平静な様子であつた。彼の恐ろしい道徳的問題がこの出来事によつて解決されたのである。退出した時、フランク・ウォカー郵政長官は私に『大統領は何週間ぶりに心底からほつとしてゐることと思ふ』と述べた」(同上書 p.634)

これらを読むと、アメリカ側は日本軍の真珠湾攻撃を「騙し討ちだ」と激怒していた様子はなく、むしろルーズベルトとその側近は、やっとこの日が来たことを喜んでいたかのようである。ルーズベルトをはじめその側近たちがこのような心理状態にあったという事は、事実は、アメリカが経済封鎖とハル・ノートでわが国を追いこんで奇襲させようとしていたと考えたほうがスッキリと理解できるのだ。
しかし、日本側が真珠湾空襲に先だってなされるべきであった対米最後通告が、真珠湾攻撃開始から50分近く遅れてしまったという事があった。それがためにわが国は「真珠湾攻撃を騙し討ちした卑怯な国」だと烙印を押されてしまうのだが、日本側はなぜ対米通告が遅れてしまったのか。単なるミスなのか、故意なのか、あるいはそれ以外の事情があったのか。今回は、この問題について考察することにしたい。

ネットでいろいろ調べると、たとえば次のURLではこう纏められている。
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/gimon/gimon6.html
「12月6日午前6時30分(ワシントン時間、以下同じ)
901号電発信。内容は「ハルノートに対する対米覚書を別電902号で送る。長文なので14部に分ける。極秘。アメリカ側通告時間は追って指示。いつでも手交しうるよう準備せよ」、通称パイロットメッセージ。
時間不明 :「機密漏洩防止の為覚書作成にはタイピストを使わぬ事」の指示。
12月6日午前6時30分:902号電1部目発信、
12月6日午後0時30分:902号電13部目発信、
12月7日午前2時00分:902号電14部目発信
12月7日午前2時30分:904号電発信 内容は「7日午後1時(ホノルル時間7日7時30分、日本時間8日午前3時)に野村大使よりハル国務長官に本件対米覚書を直接手交せよ」
この最後の904号電が大使館に配達されたのは7日の午前7時頃。
電信員が解読してタイプが終わったのが午前10時30分、902号電14部目が午前11時30分。
しかし、ここで大使館員の不手際により、暗号解読、タイピング作業に予想以上の時間がかかり、開戦後のワシントン時間午後2時20分頃に宣戦布告文が手交された。」
この文書がどれだけ長文なのかと疑問を持ったので、国立公文書館アジア歴史研究センターのHPにその日本文及び英文が読めるので探してみた。
(文書を読むには、メインページに案内されているDjVuプラグインのダウンロードが必要。)
メインページ : http://www.jacar.go.jp/
該当ページ : http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
確かに長文ではあるが、「ハル・ノートに対する対米覚書」という事であれば、大使館員は万全の態勢で入電を待機するのが当然だろう。13部までが6日の昼過ぎに受信したのであれば、丸一日の余裕があるので充分に時間があったはずだ。最後の902電14部目は7日の未明に受信しているが、英語の原文はたかだか7行程度の文章だ。宇佐美保氏HPの次のURL にその英文が掲載されている。
http://members.jcom.home.ne.jp/u33/i%20think%20030719gmtyn.htm
通説に良く書かれている、「大使館員は英文の暗号解読やタイピング作業に手間取った」というのは、重要な事実を隠した書き方だ。事実は、こんなに重要な仕事があるにもかかわらず、米国大使館員は全員大使館を出払ってしまっていたという言い訳をしている。いったい何があったのか。
当時、アメリカ大使館の電信官であった堀内正名氏は、戦後の昭和21年6月20日に提出した「日米開戦当時華府大使館デノ対米通告ノ電報解読並ニ浄書ニ関スル事実ニ付テ」という回答書に、この日の経緯について驚くべきことを書いている。先ほど紹介した宇佐美氏のHPに原文が出ている。
「…電信課員ハ本件通告電報ノ十三本目迄ヲ処理シタ時ハ、之ガ緊急電報デモナカッタシ又内容カラシテ最後的ノ緊急且重大ナモノトハ認識セズ非常ナ緊迫ハ感ジナカッタ。…同夜(六日夜)(本件電報十三本目迄解読後)館員全部ガ支那料理屋デ寺崎書記官ノ南米転勤送別会ヲヤッテイタ様ナ次第デ、他ノ館員モ同様本件電報ヲ以テ最後的ノ重大電報トハ認メテ居ナカツタ様ニ思ウ。…」
なんと、大使館員全員が中華料理屋で寺崎英成書記官の送別会で出払っていて、この電報がとんでもなく重要なものだとは誰も認識していなかったというのだ。
また本来タイプを打つべき奥村勝蔵一等書記官は、緊迫の12月6日の夜の送別会の後に知人宅にトランプをしにいったという証言もあるのだそうだ。
何という緊張感のない職場だろうと思ってみても仕方がないが、それでも堀内氏は13本の電報は7日午前1時までに全部解読し、残りの電報が来るのを待ったが、午前5時半に帰宅。7日午前9時半ごろに電報がついている旨の電話連絡があり、午前10時に登庁して解読に着手。肝心な部分を原文のまま引用する。
「一、次デ普通電解読に着手セルガ、之対米覚書ノ第十四通目ニシテ其ノ出来上リタルハ丁度正午頃ニシテ、電信課員一同間ニ合フベシト思ヒ喜色アリタリ。」(同上HPより) と、12時ごろには解読が完了していたと書かれている。
奥村一等書記官が送別会の後に大使館に戻り、13本の浄書を早目に完成していたら、14本目の浄書を付け加えるだけの作業であり、それほど時間がかかるものではなかったはずだ。大使館から国務省までの道のりは徒歩10分程度だったので、約束の1時に届けることは余裕で間に合ったことなのである。
とすれば、奥村一等書記官は懲戒処分にされてもおかしくないほど罪が重いと誰しも思うのだが、全く処分されることなく1952年には外務省の事務次官に栄転し、1969年には勲一等まで授与されているのも妙な話である。
そもそも最後通牒よりも送別会を優先したことが真実なのだろうか。戦争が始まろうとしている緊迫した時期に、異動があったり送別会があるのも奇異に感じるのだが、本当に米国大使館の職員はこんなに怠惰だったのかと永年疑問に思っていた。

最近になって、全く別の証言があることを知った。
斎藤充功氏の『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』という本を取り寄せて読んでみた。この本によると、対米諜報を任務とし、アメリカの国力・戦力を調査していた陸軍主計大佐の新庄健吉(下画像)が12月4日に病死し、開戦当日の12月7日の朝からワシントンのバプテスト派教会で葬儀があったのだそうだ。

『週刊原始福音』という雑誌の177号に、当時のアメリカ大使館で一等書記官であった松平康東氏が、その葬儀に野村、来栖の両大使が出席し、葬儀でアメリカ人牧師が新庄大佐の生前の英詩を読み上げて長々と追悼の辞を述べて予定以上に葬儀が長引いたことが、開戦通告が遅れた原因であることを対談の中で述べているという。
著者の斉藤氏がすごいのは、その記述内容の真偽を確かめるために各地に飛び、かつて新庄が学んだ陸軍経理学校の同窓会である『若松会』の人物にまで面談し、その会報誌に寄稿された記事の中から、野村、来栖の両大使が出席した新庄の葬儀が1時間以上予定を超過し、そのために最後通牒の手交が遅れたという別の会員の書いた記事を発見しておられるところだ。
信者向けの冊子の記事と、同窓会の冊子に書かれたことが一致していることに偶然という事はあり得ないことだ。おそらく、新庄氏の葬儀に野村、来栖の両大使が新庄健吉の葬儀に出席したことも、その葬儀が長引いたことも真実なのだろう。
とすると、奥村勝蔵は指定された時間内に対米覚書を手交できなかった野村大使と外務省を守るために、自らが犠牲になったことも考えられるのだが、外務省内ではなぜかこの葬儀自体が秘密にされてきていたようなのだ。
著者の斉藤氏は、この葬儀に出席したはずの、当時在米日本大使館の三等書記官であった人物に面談を試みたが、その葬儀に両大使が出席していたかどうかを尋ねたところ「強い口ぶりで」否定されている。
もし、この野村大使がこの葬儀に出席したために最後通牒の手交が遅れたということが真実であるならば、野村大使の責任が問われることは間違いがないだろう。外務省はそれを避けようとして、奥村一等書記官に責任を被せて、後に厚遇してその恩に報いたということではないのか。
斎藤氏の本を読んでいると、いろいろ面白いことが書かれている。

たとえば、12月7日には東条英機は奇襲を成功させてから宣戦布告することを当初考えていたのだが、天皇から呼ばれて「最後まで手続きに沿って進めるように、宣戦布告は開戦前にすること」と、強く窘められて方針を変更し、暗号電文の発信を早めたのだそうだ。
その方針変更が米国大使館の両大使に伝わらなかった可能性はなかったか。
それとも、東条が天皇の意向に背いて、米国大使が捕まらない時間帯に暗号電文を発信させたのか。
あるいは、もっと踏み込んで、アメリカが新庄の葬儀に工作したという事は考えられないか。そもそも新庄の死因も良くわからず、関係者の間では「毒を盛られた」との噂もあるようなのだ。

斎藤充功氏はこう書いている。
「ヨーロッパで戦火が広がる中、米国の国際的な体裁は、民主主義の国、平和愛好の国で通っていた。自国民に向けても、正義を貫く大義名分が必要であったろう。そのためには、あえて日本に先制攻撃をさせ、悪者になってもらわなければならなかった。しかもそれが『宣戦布告なき先制攻撃』であれば、こんな好都合なことはない。日本が『トレチャラス・アタック(卑怯な騙し討ち)』を仕掛けてきたと見せるために、宣戦布告を意図的におくらせることはできないか…。
そう考えた米国が、新庄の葬儀を巧妙に利用した、とは考えられないか。」(斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか』p.58-59)
だとすると、新庄の葬儀に出席した野村大使はまんまとアメリカの仕掛けに嵌ってしまった事になり、大使の責任問題になりかねない。だから葬儀のことを隠して、事務手続き上のミスにすり替えたというのだが、斉藤氏の説になかなかの説得力を感じるのだ。
とはいいながら、これという証拠があるわけではなく、生存者がほとんどいなくなった今となっては何が真実か、確定させることは困難だ。
既に日本人の常識となっている説が正しいとは限らないと思う事が多くなってきた。
いつの時代もどこの国でも、歴史の叙述は、勝者にとって都合のいいように書き換えられていくものであり、特に現代日本史に関して言うと、戦勝国に都合の良いように事実が歪められたり、当事者の所属する組織のトップが傷つかないように書き換えられることがあることを考えておいたほうが良い。
現代史は、もし世界の勢力図が変わったりわが国の権力構造が変わったりすれば、かなり修正されていくと思われる。我々が学校で学び、マスコミで何度も垂れ流される歴史というものは、所詮はその程度のものなのだ。
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