「大東亜共栄圏」の思想が広められた背景を考える
いつの時代でもどこの国でも、戦争を始めるには国民を納得させるだけの理由が不可欠だ。
アメリカの場合は「リメンバー、○○」と、嘘でもいいから国民に復讐心を煽ることで紛争に介入して何度も自国の権益を拡大してきた歴史があるのだが、そういう単純な世論誘導が出来たのは、アメリカにはいつでも戦争ができるだけの資源が国内に豊富にあり、周辺諸国よりも軍事力で圧倒的に勝っていたことが大きいのだと思う。
一方、わが国には長期にわたり戦争を継続できるだけの資源がないので、近隣諸国との問題が発生した場合は、まずは外交で問題の解決を図ることを優先してきたことは当然である。
いくら相手国が理不尽な要求をしてきた場合でも、勝算もなしに参戦したところで長期戦に持ち込まれれば敗戦が確実で、そうなれば国民を塗炭の苦しみに陥れてしまうことになってしまうからだ。
当時の日本軍の戦闘機や武器の性能がかなり高かったことを前回の記事で書いた。しかしそれらの性能が世界のトップレベルであったとしても、鉄や石油などの資源がなければ新たな兵器の製造も、飛行機や戦艦の製造も修理も困難となり、いずれは日本軍としての戦力が急低下していくことは明らかである。
だから、わが国が戦争する場合は、短期間で決着をつけるような戦い方しかできないはずなのだが、なぜか日中戦争に巻き込まれ、その上にアメリカとも戦わざるを得なくなってしまった。
その背景に何があったのかを掴もうとすると、通史をいくら読んでもピンと来るものがなかった。国益と国益がぶつかり合う世界で、ドロドロとしたものがあって当然であるのに、なぜかわが国だけが侵略国だったと片づけてられてしまうことが納得できなかった。

レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」を知ったのは比較的最近のことなのだが、レーニンとスターリンの言葉を読むと、この時代はこの二人の言葉通りに世界が動くように共産主義者とその協力者が工作活動をしていたと考えたほうが、納得できることが多いと思うのだ。少なくともわが国の昭和史についてはそう考えたほうが自然なのである。
レーニンの考えにもとづき1928年のコミンテルン第6回大会でこのように決議されている。
「帝国主義相互間の戦争に際しては、その国のプロレタリアートは各々自国政府の失敗と、この戦争を反ブルジョワ的内乱戦たらしめることを主要目的としなければならない。…
帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること。
… 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめることは、大衆の革命的前進を意味するものなるが故に、この革命的前進を阻止する所謂「戦争防止」運動は之を拒否しなければならない。
…大衆の軍隊化は『エンゲルス』に従へばブルジョワの軍隊を内部から崩壊せしめる力となるものである。この故に共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない。…」(三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』p.38-40)
当時の日本はマルクス・レーニンの著作などがバカ売れした時代であり、生まれてまだ日も浅い社会主義国であるソ連を理想国家と考える日本人が少なくなかったことをこのブログで書いたことがある。
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-207.html
レーニンは、自国を敗北させて戦争を通じてプロレタリア革命を遂行せ、共産主義者は進んで軍隊に入隊して内部から崩壊させよ、などと恐ろしいことを述べていたのだが、この思想に共鳴したメンバーが実際に政府の中枢に実在し、軍隊にもかなり存在していたことがわかっている。
何故軍隊という規律が正しいはずの組織がわが国で暴走したか、何故日中戦争がズルズルと泥沼化していったかが長い間納得できなかったのだが、わが国の軍隊の中に、レーニンのこの敗戦革命理論を実践しようとする勢力が少なからずいたと考えればすっきりと理解できるのだ。

また1935年(昭和10年)の第7回コミンテルン大会ではスターリンが、第二次世界大戦を機に世界の共産化を推進させる具体的な方法を述べている。
前回の記事で、そのスターリンの演説を引用したが、彼の戦略をまとめると、ドイツはフランスとイギリスと戦わせ、日本は中国に向けさせた後アメリカと戦わせ、日・独の敗北のあとにその荒らしまわった域と日独両国を共産化することを狙うというものだが、その後の歴史は、前回の記事で触れたとおり、途中までその目論見通りに進んでいくことになる。
今までこのブログで当時の記録を紹介しながら縷々述べてきたが、わが国はソ連の工作により、日中の戦いにひきずりこまれ、次いでアメリカとの戦いにも参戦させられたのであって、自らが侵略する目的で参戦したものではないと考えた方が当時の記録や史料と矛盾することがなく、すっきりと理解できるのだ。

真珠湾攻撃の日に昭和天皇が国民に向けて「開戦の詔書」を出しておられる。
この詔書にはどこにも「大東亜共栄圏」や「東亜諸民族の解放」などという勇ましい言葉がなく、戦うことは(昭和天皇の)本意ではないが自衛のためにやむなく参戦するしか道はないと書かれている。
原文では読みにくいので口語訳の一部を紹介する。全文の原文、読み下し文、口語訳は次のURLで読むことができる。
http://www.geocities.jp/kunitama2664/daitoua1208.html

ここで昭和天皇は、わが国が戦わざるを得ない理由についてはこう述べておられる。
「…今や、不幸にして、米英両国との争いを開始するにいたった。まことに、やむをえない事態である。どうして、これが余の本意であろうか(このような事態は、余の本意ではない。)
…余は、政府をして、そのような事態を平和の裡(うち)に解決させようと、長い間、隠忍(いんにん)したのだが、米英は、寸毫も譲り合いの精神を持たず、むやみに事態の解決を遅らせ先延ばしにし、その間にもますます、英米による経済上・軍事上の脅威は増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態が、そのまま推移したならば、東アジアの安定に関して、帝国がはらってきた積年の努力は、ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、文字通り危機に瀕することになる。ことここに至っては、帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、英米による一切の障礙(しょうがい)を破砕する以外に道はない。…」
と、この戦いが自衛のためのものであることを明確に書いておられる。この内容は今まで私がこのブログで書いてきたわが国の出来事やの交渉経緯と矛盾することがなく、すっきりと理解出来る内容になっているのだが、この詔書が通史や教科書で紹介されていることはほとんどない。
ところが、4日後の12月12日に、東條内閣での閣議決定でこの戦争の名称を「大東亜戦争」と呼ぶことが決定し、同日情報局が「今次の對米英戰は、支那事變をも含め大東亞戰爭と呼稱す。大東亞戰爭と呼稱するは、大東亞新秩序建設を目的とする戰爭なることを意味するものにして、戰爭地域を主として大東亞のみに限定する意味にあらず」と発表し、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定されている。
「情報局」というのは戦争に向けた世論形成、プロパガンダと思想取締の強化を目的に設置された日本の内閣直属の機関であるが、この文章には不思議なことに「自衛戦争」とのニュアンスが消えてしまっている。なぜ「情報局」が、昭和天皇の「開戦の詔書」の主旨と異なる発表をしたのであろうか。
そもそも、「大東亜共栄圏」とか「大東亜新秩序」という言葉はいつ頃誰が創ったのだろうかと調べると、昭和10年の第7回コミンテルン大会の後だということがわかる。
ネットで調べると昭和13年1月に「東亜新秩序」声明があり、それ以降「昭和研究会」のメンバーが中心となって東亜共同体の理論体系を展開していったとある。
ソ連のスパイであった尾崎秀実が手記に書き残した「昭和研究会」のメンバーには、後の「企画院事件」で検挙された革新(共産主義)官僚が数多くいたことがわかるし、それ以外のメンバーも、戦後には社会主義者・共産主義者として知られているメンバーが少なくない。
http://www.asyura2.com/0411/senkyo7/msg/981.html
以前このブログでも書いたように、大正15年(1926)の時点でコミンテルンの秘密宣伝部が日本の新聞と雑誌19のメディアをコントロール下においていたということがアーサー・ケストラーの手記に書かれているが、コミンテルン工作の最重要のテーマはソ連の防衛と、共産圏の拡大にあったことは言うまでもない。

昭和15年(1940)9月にわが国は日独伊三国聯盟を締結し、翌年の昭和16年(1941)6月に、日本の同盟国であったドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻すると、当時の近衛内閣では、4月に締結された日ソ中立条約を破棄してでも同盟国としてソ連と開戦すべきとする松岡洋右外務大臣と近衛文麿首相との間で閣内対立が起きている。近衛は松岡の「北進論」を退けて内閣を総辞職し、改めて第3次近衛内閣を組閣して南進論の立場を確認し、7月に南部仏印への進駐を実行するのだが、この時期から「大東亜共栄圏」という言葉が流行しはじめ、公式文書に登場するのは昭和16年(1941)1月30日の「対仏印、泰施策要綱」が初出なのだそうだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E6%A0%84%E5%9C%8F

この時期に、尾崎秀実は「シベリア作戦で国力を消耗したところを背後から米国につかれる恐れがある。…南方には日本が戦争を完遂するに必要な資源(ゴム、錫、石油等)が豊富に存在する。だから、我々は今こそ、断乎、英米を討って南方に進むべきである」などと主張していたようだ。
この時にわが国がもし「北進論」を選択していれば、わが国はドイツとソ連を挟み撃ちすることができ、そうすればソ連の息の根を止めることができたのだろうが、それを阻止する勢力がわが国に多数いたことは確実だ。
昭和16年(1941)9月6日の御前会議で、わが国は日独伊三国同盟よりも日ソ不可侵条約を優先することが決定したのだが、その直後に満州国境にいたソ連軍は一斉にヨーロッパに移動し始め、独ソ戦線に向かったのだそうだ。このことは、御前会議の決定がソ連に筒抜けになっていたことを意味した。
ドイツからの照会を受けてこの重大情報漏洩の追及の結果、ゾルゲと尾崎秀実が1か月後に逮捕されることになるのだが、参考人として取調べを受けた関係者は数百人にも及んだという。

しかしゾルゲと尾崎が情報工作により日本を対ソ不戦に導き、その情報をいち早く伝えたことはソ連にとっては極めて貴重なものであった。
ソ連はゾルゲに対して、1964年11月5日に「ソ連邦英雄勲章」を授与している。また歴代の旧ソ連駐日大使やソ連崩壊後のロシアの駐日大使は、日本に赴任した時に東京の多磨霊園にあるゾルゲの墓参をすることが慣例となっているそうだ。
また尾崎もソ連のスパイとしての功績が高く評価され、2010年1月にロシア政府から、尾崎の親族からの申し出があれば、勲章と賞状を授与するとの発表が出ているらしいのだ。

「大東亜」と呼ばれた地域の多くが昔の英米仏蘭の植民地であり、「大東亜共栄圏」という言葉は白人に支配されている住民を解放するためにわが国が戦うことを暗示し、そのことが「対ソ不戦」を意味するということを今まで考えたことがなかったのだが、最近になってこの言葉が、尾崎をはじめとする「南進論」を唱えるメンバーにより広められたことに気が付いた。
「大東亜共栄圏」とか「東亜諸民族の解放」とかいう勇ましい言葉は、つい最近まで、この時期に右傾化した日本で広められたスローガンだとばかり思っていたのだが、このブログで記事を書いているうちに、これらの言葉は、レーニンの「敗戦革命論」やスターリンの「砕氷船のテーゼ」の考え方の中から、共産主義者やそのシンパによって編み出されたのではないかと考えるようになってきた。
尾崎やゾルゲらは、日本をソ連とは戦わせずに中国、ついでアメリカと戦わせ、わが国の国力を消耗させたのちに、世界の多くの国を共産国化させる戦略を練っていた。
最初に書いたように、我が国が戦争に参加するにあたっては、国民を納得せる理由が不可欠だ。しかし単なる「自衛戦争」では「敗戦革命」を実現し、あわせて世界の共産化を図ることは難しいと考えたのではないか。全世界の共産革命のためには、戦争はより大きくて複雑なほど都合が良いはずだ。
そこで、当時白人に支配されていた東亜諸民族の解放という崇高な目的が付け加えられ、マスコミによる世論工作が繰り返しなされて、わが国が無謀な戦争に突き進むように巧妙に仕掛けられたということではなかったのだろうか。
第二次世界他大戦後に、「大東亜共栄圏」にあった国々が西洋からの独立を果たしている。それは我が国が白人勢力を一時的にせよ追い払ったことがなければ実現しなかったことではあるのだが、それは、我が国の国力を消耗させ、わが国の敗戦の後でそれらの国を共産化させるというスターリンの謀略そのものではなかったのか。
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